ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

ジョジョ5部 キリスト教と関わりつつの総括

ジョジョキリスト教の関わりに主眼を置きつつ、5部のストーリーとテーマを総括しようとする記事です。

 


ジョジョにまつわる小話として、
連載直前の週刊少年ジャンプに「驚異の二重人格者ジョジョが登場!?」みたいなウソ予告が載ったという小話がある。
(私自身は、その号の予告を見た記憶が無く、インターネットの情報からの又聞きです)

5部の主人公 ジョルノは、遅ればせながら登場した「驚異の二重人格者」と、言って言えなくもない。
正義と悪のハイブリッドであり、神の子と悪魔の子を混合したような生まれ。
(そもそも、DIOという悪役はイタリア語の「神 Dio」から名前を採っているということで、作者の込めた意味は一筋縄ではいかない)

究極の美と正義を体現するものとして、ミケランジェロダビデ像をモチーフにビジュアルが構想されたとも言うし、
あるいは5部開始直前の構想では、ジョルノを女性主人公として描くアイデアもあったらしい。(ゴールドエクスペリエンスの能力は、生命を産む女性のイメージ)

ただし、(ジョルノファンの方々には申し訳ありませんが、)これらの設定・構想が全て盛り込まれ実現されたかと言うと微妙で、
かつて宅八郎とのインタビューで荒木先生が語った「ムリヤリキャラを作って、話を始めた」感じが、ジョルノの造形には漂っている。

もろもろのイメージや設定が活かされていないというか、キャラクターの行く末が見えづらいまま、五里霧中のままで話が始まったような、そんな印象を連載当時に思ったものだった。


ジョルノたち主人公は、物語に登場してきた時点で、ギャング=「罪人」=「悲しい過去を背負っている」。
そこが物語のスタート地点で、そこから這い上がってどう生きるか?が、5部のストーリー展開だったと思う。

キリスト教で、産まれながらに人が罪を背負って生きること。
椛島編集が呟いたであろう「生きていることの悲しさを描きたいよな」というかねてからのモチーフを、
キリスト教文化の総本山であるイタリアを舞台に、ゴッドファーザー的ギャング抗争を描きつつ、キリスト教の骨子を背景に負って描き進めたのが5部だった。

ブチャラティが天使を伴って昇天する、宗教画のような扉絵。

ディアボロ(イタリア語の悪魔)は文字通りの悪魔として現れて、徹底的な悪役・敵役として散っていった。

5部の欠点として思うのは、主人公と敵役のキャラが今一つ弱く、ジョルノとボスの対立位相が今一つ明確でなく、ピントがぼやけている。
(一方、ブチャラティトリッシュの活躍、プロシュートとペッシの奮闘はこれまでに無く新鮮で、面白く描けていたと思う)

ジョルノたちとボスの最終決戦が今一つ盛り上がらないのは、
5部のストーリーが主人公サイドに重きを置いて、罪人たる彼らがいかにして救われるかまでの物語に力点を置いていたからだと思う。

「運命の奴隷」論が登場するエピローグは、ブチャラティたち主人公チームの生き様を補強するもので、
運命の奴隷、産まれながらに悲しい過去を背負った罪人がどう生きていくかのテーマは、5部での語りを経て、6部に持ち越される。


5部文庫本の最終巻に、荒木先生のあとがきが載っていて、かなり思い入れの入った、熱い文章が描かれている。
たしかジョジョメノンのインタビューでも「5部はジョジョの神髄。ジョジョのテーマを深く描き切った」との自負が述べられていた。

(一読者に過ぎない)私としては、作者のそこまでの思い入れに違和感を覚えるところもある。


下記 あくまで私自身が読者として受けた感想であり、作者の背景・事情を全て知った訳も無く、主観と憶測によるものですがーー

5部は、ネタ切れ、長期連載のきしみと歪み、商業誌連載のトップとして、様々な重圧があった中で描かれた作品である。

ユリイカ 斎藤環氏によるインタビュー、ブブカ 宅八郎との対談による印象もあるかと思いますが、
作者が「苦しみつつ、乗り切って描いているな」という印象が強い。

描くべきストーリーが見当たらず、キャラクターも無く、何も無かった出発点からキャラクターが出来て、
キャラクターを動かしていく内に、テーマを背負った物語が出来て、然るべきところに落ち着いた。

それが、作者が述べるところの、「苦しいときに吹いてくれる、黄金の風」だったのではないかと、不遜ながら思います。

「運命の奴隷」として、運命に抗い、運命に従い準じて生きて、やがて死ぬ。
ブチャラティたちの苦闘は、そのまま(5部執筆当時の)荒木先生の苦闘であり、
だからこそ、作者にとって最も思い入れ深く、真髄を描き切った作品だと、掌中の珠を愛しんでおられるのだと思います。

ブチャラティナランチャの対話が印象的なエピソードのタイトルは、ジャンプ掲載時「ボートに乗るのは!?」だった。
プリンスの曲 Get on the Boatノアの箱舟)にイメージが重なる、既存の社会組織、既存の世界からの脱出である。

ジョジョ5部と6部の難点 (ジョジョとキリスト教の関わり、端書き)

仕事の関係でキリスト教とそれに類比・対置する思想哲学を調べる必要があって、自分なりにあれこれ読んでいた。
まだまだ調べて実践し、確かめている最中であるが、
途中でふと気がついたことがあり、
ジョジョのシリーズ、中でも5部と6部、7部以降の展開は、キリスト教の解釈と深く関わっているのではないか」
ということだった。


私の手元には今日現在、ジョジョの5部と6部だけが手元になく、(昔に読んで)実家に置いたままになっている。
結婚をして実家を出たときにほとんどの本を実家に置いて、(結婚後)順次刊行されるSBRの単行本を手元に置いていた。
その後 きっかけがあり、最近になって1~4部までの単行本を手元に取り寄せた。

私にとって、ジョジョ5部と6部は捉えづらく、率直に言って手放しでは絶賛しにくいシリーズであった。

お断りとして、下記 5部と6部を部分的に否定、disる発言を行っていきますが、
私個人の見解であり、自由な意見としてご容赦頂きたいと思いますーー

 


ジョジョシリーズを1部から7部まで通して読んできて(8部は未完のため対象から除外)、
5部と6部は、他と較べていくらか落ちる。

理由はいくつかあって、
・3部、4部からのスタンドバトルで物語を繋ぐ連載形式に飽きていて、マンネリ感が強い

スタンド能力が分かりにくく複雑になり、頓智を掛けあってバトルが二転三転する爽快感が無くなった

・絵柄、コマ割りに癖が強くなって、読みにくくなった

・何となく読んでて息詰まる感じがあり、楽しい、広々とした感じに欠ける


加えて、キリスト教などの勉強をしていて気付いたのが、

キリスト教を対象とした宗教・哲学の議論が物語に入り込んでいて、複雑で、読みづらい話になっている

ということだった。

荒木先生が、自分自身の宗教観・哲学思想を整理し、まとめ直しつつ、ストーリーやバトルの裏側で自問自答し描こうとしている。
だから、背景にあるルーツ(キリスト教)を知らないとエピソードや場面場面の意図・象徴が見てとれず、読み取れない。
5部と6部の分かりにくさ、読みづらさには、そのような事情があったと思う。

近作 SBRで言えば、シビルウォーの贖罪の話。
ホットパンツはなぜシビルウォーに勝てなかったのか、罪を清めるとはどういうことなのか。
キリスト教の知識と物語を知っていないと、モチーフの挿入された意味が分からない。

ちなみに、7部 SBRの全体を貫くキーワード、大きなモチーフは「開拓者の精神」であろうと、私自身は受け取っています。

そして、次の記事から、5部と6部におけるキリスト教の解釈と展開、それぞれのストーリーとテーマの全体像を、私なりに追っていきたいと思っています。

「お伽草紙」と「人間失格」  太宰治と吉良吉影のアント/シノ的二元論

(下記 ほとんどジョジョと関係ない記事であり、私の読書メモです。
 ジョジョリオンの連載は次号休載、つるぎと密葉の行方が気になりますが、幕間の暇つぶしとしてご覧ください)

 

仕事の参考に、ふと太宰治の「お伽草紙」を手にとって読んだところ、とても面白かった。
続いて、太宰治の暗いほうの話、「人間失格」を中学2年生のとき以来読み直した。

中学2年生ーー文字通りの中2病ーーのときに、人間失格というタイトルはインパクトがあってビビッと来て、
「ワザ、ワザ」と「二匹の動物がいました」の2フレーズに強いインパクトがあり、ネガティブな感じに嫌悪感を覚えつつ感動した。

その後、19才くらいのときにアンチ自殺論みたいな本(林田茂雄の「自殺論」)を読んで、たぶんその中に「自殺は良くない、エゴの象徴だ」みたいな太宰治批判に納得していた。
(ちなみに、高校生くらいのときに「だからたけしは嫌われる」という無名のライターが書いた黄表紙の書籍があり、当時 たけしに飽きていた自分は納得しつつ読んだ。
 自分の意見でものを述べるにはまだ到らず、他人の批判・言説を読んで、我が意を得たりと納得していたのだと思う。

19才になる同じころ、テリー伊藤が書いた「王さんに抱かれたい」を読んで感動していたのだから、青年の悩みは深刻だったのか朗らかだったのか、よく分からないところだった)

 

ーーそれからずいぶんと時間が経って、お伽草紙「浦島さん」から読み始めたところ、とても面白く、
同じ本(新潮文庫お伽草紙)に入っている「清貧譚」も面白く、次いで、反対方面(?)の人間失格を、青空文庫にて読んだ次第である。


人間失格は、荒木先生が「マンガ術」で述べたところ、マイナスの極致を追求する作品である。
少年マンガにおける黄金則 プラス、プラス、プラスのストーリー作りには当てはまらない。
キン肉マンのようなプラスプラスのストーリーづくりに飽きた読者(中2)が読むのに、おあつらえ向きだった訳である。

中2で読んだときは、「葉ちゃん」の幼少期のエピソードにグッと来て、自らと重ねつつ読んだものの、東京に出たくらいからストーリーがよく分からなくなった印象がある。
読者の私に、お酒や女性の経験が無く、人生の実体験に乏しかったためで、今回 読み直したときは、そこらの実体験を踏まえつつ読み進むことができた。


私の乏しい文学知識で述べると、夏目漱石芥川龍之介太宰治の3人は、間違い無く面白く、天才と呼んで差し支えないと思う。

太宰治が暗いのか明るいのか、どちらの作品がほんとうなのかみたいな議論があるが、どちらも本当だったと思う。
お伽草紙」と「人間失格」、作品の色合いは違うがそれぞれに面白く、作者の通底した視点、醒めたシニカルな物言いが面白い。

人間失格のあとがきは切ないしめくくりになっていて、
「私」(=若かったときの自分を振り返る、作者としての私)と「バーのマダム」が葉ちゃんを振り返り偲ぶ会話で物語が締めくくられる。
手記を読む内に、主人公と自分を重ねて読んできたのが、ここでパン!と仕掛けが解かれて、現実に引き戻される訳である。

「罪の対義語(アントニム)は何だろう?」という問いへの答が得られないままに手記が終わって、
バーのマダムが最後に、「あのひとのお父さんが悪いのですよ」「神様みたいないい子でした」と言う。

複雑な意味が込められてあって、ウラオモテがあり一口に言えないが、切れ味のいい言葉をアタマと〆に持ってくるのは、マンガと同じく物語作りの鉄則だと思う。
(ちなみに、今 私がキリスト教のにわか勉強をしていることもあって、人間失格のそこかしこに、ラストのマダムのフレーズを含めて、キリスト教的な愛に近づきつつそこに行きつけないとする、作者の思いを感じてしまう。誤解かもしれませんが…)


ーーすっかり長文になってしまいましたが、このブログ記事で書こうと思った本題は下記のところ、
吉良吉影太宰治に似ている、重なっているところがある(シノニムの関係にある)」です。

人間失格の中に、クロオの詩から、こんな一節が引用されています。


してその翌日も同じ事を繰返して、
昨日に異らぬ慣例に従えばよい。

即ち荒っぽい大きな歓楽を避けてさえいれば、
自然また大きな悲哀もやって来ないのだ。

ゆくてを塞ぐ邪魔な石を
蟾蜍は廻って通る。


私がこれを読んで浮かんだのが、吉良吉影が4部終盤でつぶやいたセリフです。
「激しい喜びはいらない…そのかわり深い絶望もない…… 植物の心のような人生を… そんな平穏な生活こそわたしの目標だったのに……」


太宰治が引用したクロオの詩 全文は、「上田敏訳 牧羊神」で読めます。下記 青空文庫にあります。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000235/files/51173_42027.html

お読みいただくと分かりますが、元の詩はネガとポジを対比させるキリスト教賛歌になっていて、
太宰治は意図的に、この詩のネガな部分だけを切り取って、自分の物語として、もっとよい詩に作り直しているところが素晴らしい腕前だと思います。


最後に、完全な思い付きですが、4部吉良吉影のビジュアル上のモデルは、たぶん、デビッドボウイの若いときのイメージから幾分の着想を得ているかと思います。
(私を含めて、世間の読者たちから見て)吉良とデビッドボウイの顔姿がそっくり、印象も重なっているからです。

同様に、8部の吉良吉影 セーラー服を着た医者、黒髪のクセッ毛に特徴があり、シニカルな物言いと母親思いの真情に特徴があります。
8部の吉良吉影 ビジュアル上のモデルは、太宰治にあったかもしれない。
たぶん、荒木先生の胸中にそうした繋がりは無かっただろうと思いますが、個人的には、8部の吉良吉影と、太宰治(作家として作品に描かれた姿)は重なりました。

太宰治が頬杖をついた肖像写真、芥川龍之介を真似てポーズを取った写真、銀座のバーで織田作之助と歓談していたときの写真なんかを思い起こしていただければ、
吉良吉影太宰治は似ている!」と、ご納得いただけるのではないかと思います。

ジョジョリオン 「収穫へのカウントダウン」

ジョジョリオンの連載をけっこう楽しみに毎月読んでいて、ウルトラジャンプでは他に、オオカミライズともののがたりをある程度楽しみに読んでいる。

メランコリアは、最初の数回 面白かったのだが、話が繋がっているような繋がっていないようなややこしさを感じて、あまり良く分からなくなってしまった)


今月号 「収穫へのカウントダウン」は、康穂の三角関係とつるぎ母子の因縁が描かれはじめた話で、ボーイスカウトの意地悪さが小気味よい。魔少年ビーティーの一話以来で、懐かしさを感じる。


5chでジョジョリオンの感想を読んでいると、なぜペイズリーパークでロカカカの枝を追わないのか? と指摘があり、言われてみればその通りである。

康穂と定助を引き離して、枝争奪と恋愛成就を引き延ばすための措置であり、キャラクターやストーリーをどう描くかが「先」で、スタンド能力の使い方の有無は、ストーリー展開にあわせた「従」なんだろうと思う。


スタンドバトルのトリックや辻褄を追って読むと、今のジョジョリオンはけっこう辛い。3部~5部くらいまでの頃と違って、6~8部、とりわけジョジョリオンに到ると、二転三転のバトルにはあまり重きを置いてない感じがする。(個人的感想ですが)


映画や小説、マンガを見ていて、ストーリーのこの先はどうなるんだろう、キャラクターの行く末は、作者が舞台の裏に込めたテーマは何か? そういうものを追いながら、先へ先へ進んで、あーーっというラストの満足を求めて、最後まで鑑賞していく感じがある。

ドラゴンボール ブロリーの映画を観ていて、ストーリーの大筋はだいたい予想がつくものの、チライがブロリーに駆け寄っていって、クライマックスでドラゴンボールを使うシーンは、あーーっという感じになり、それなりの満足感があった。

否定的な意味のマンネリではなく、予定調和、安心感、落ちるべきところにストーリーが落ちることの満足感、と言う感じである。

ジョジョリオンの、向う1年くらい(?) クライマックスに向けての展開は楽しみで、主人公たち、東方家、ホリーさんの三者模様をどうまとめるか。

登場人物それぞれの悲喜こもごもがある筈で、「犬神家の一族」的盛り上げ方を期待している。

 


追伸:
先日 本屋さんに行ったら、岡田あーみん「こいつら100%伝説」と「ルナティック雑技団」が復刻されていて驚いた。
さくらももこ追悼フェアとして、ちびまるこちゃん他 一連のコミックスがズラリと並んだ横に、端っこに岡田あーみんの作品が並べられていた。
コミックの印刷日を見ると2018年11月とあり、さくらももこさんの死去後 急いで増刷されたことが分かる。

去年の夏 岡田あーみんの2作を読みたいと思って探したが、何千円もする中古本しか出回っておらず、困っていたのでビックリした。
さくらももこが亡くなって、懐古的にちびまるこを読む人が増えるだろうからついでに岡田あーみんも印刷しておけ、という明らさまな出版社の態度が面白かった。
(気迷ったが、結局 岡田あーみんのコミックを購入し、春までに読んでみよう と思っています)

21世紀をどう生きるか?(究極の中2病)

仕事の関係で、100年前くらいのことを調べたり、そこから現代に結びつけて、自分の行く末を考えることがある。

社会科学の本を読んでいると、(1905年発表の論文 世界的な大家で、その卓越した知見と共に)これは究極の中2病だな、と感じる節がある。

学問に限らず、人が本を書いたり言葉をまとめたり、ものごとを考えるのは、
これまでの歩みを振り返りまとめて、今とこれからをどう生きるかを考えるためである。
私自身はそう思う。


2019年の正月を迎えて、2020年以降の未来を生きるにあたって、
21世紀をどう生きるか? 究極の中2病的な問いを自らに課す。

政治経済の動向とか、インターネットやAIの商業利用とかではなく、
もう少し自らにリアリティのあるところで、自分に動かせるところの未来を考える。

かつて、子どものころに読んでいた小学館や学研の科学雑誌に記述されていた未来予想では、
宇宙ステーションに家族が住んでいるみたいな生活予想図が掲載されていたが、そうなってはいない。


以前 ジョジョシリーズが2011年より先の時代を描かないのはなぜか?を考える記事を書いた。
ジョジョ6部→7部・8部へと通底するテーマ 「自然に帰れ」と2011年問題

荒木先生が2011年より先の時代を描かないのは、まだ自分にはその先の時代を描きづらいと思っているからだろう。
20世紀に少年期を過ごした著者が、ペンと机を頼りに自らの行き場を模索し描いているその歩みが、
ジョジョシリーズの19世紀末から2011年までの歩みであると思われる。


人生は判断と選択の連続であり、
ともすれば、パラレルワールドの連鎖で、いくつもの違う並行世界が拡がり続けているみたいな妄想を持つことがある。
SFからのアイデアで、ジョジョでも実際、6部のラスト、7~8部にかけての舞台設定、ヴァレンタイン大統領の悪夢のようなスタンド能力に活かされている。

岸部露伴が初登場時の話で、
マンガ家はありとあらゆるシチュエーションを考えていて、このパターンならこのキャラクターはどう動く、どんな展開の可能性があるか…あらゆる方向で多面的にネタを考える習性がある、というような話を述べていた。

マンガ家としての、展開のパターンをいろいろと考える習性が、パラレルワールドのアイデアに繋がっているのかもしれない。
ただし、ジョジョリオン1~11巻くらいまでに顕著だったエピソードのブツ切れ感、伏線の繋がらない散らかった感じは、もう少ししっかり改良してほしかった、と思うが…。


21世紀をどう生きるかについて、つまるところ、今とこれからの実践にかかっている。

ジョジョリオン 羽先生を倒すまでの話の感想

ジョジョリオン 2018年12月発売のウルトラジャンプ、羽先生が倒されるまでの話を読んだ。

(ブログ記事では取り上げていないが、ウルトラジャンプが出るたび毎月買って読んでいる。今月号はとくにひどく、ジョジョリオン以外は目も当てられない些末なエロ漫画読み切りのオンパレード、あるいは絵が上手くグロ描写に力を入れてはいるもののストーリー性に欠けるイマイチな漫画が多かった)

 

密葉さんが最後 鼻を失ってしまったところで終わるが、美容整形にハマっていた身勝手な女性が妊娠を知り、母性を手に入れたところで終わる。

荒木先生の映画本で「シュレック」を取上げて、(いわゆる)おとぎ話のひっくり返し、真の美醜は何か?を問う展開を褒めていた。密葉さんと羽先生のオチは、これらを思い起こさせるものがあった。

 

康穂の元カレ トオル君は、もう出てこないのだろうか?

「新ロカカカの収穫まであと10日」とあるので、あと1~2つ エピソードを挟む筈である。

もう出てこない気がするが、カレラとトオルが再登場して、定助と康穂、常秀をめぐる恋愛トラブルみたいなものを描いて、ロカカカの話に繋げていくかもしれない。

羽先生は強かったのか弱かったのか微妙だが、ギャグのような倒し方で、あえて間の抜けた決着を狙っていたのは面白いと思った。

 

もう1人 最後の岩人間は、吉良ホリーとロカカカの研究で因縁のあった人物の筈。もしかすると、名前だけが登場している、吉良吉影のお父さんかもしれない。

ジョジョ1~3部のようなバトル、血潮が湧きたつような高揚感はありませんが、今の展開は枯れた味わいがあって、世の中を俯瞰して見ている感じがそれなりに面白い。

ただし、ウルトラジャンプの月刊連載は進みが遅く、コミックスでまとめて読んだほうが良いと思う。そんな感じの、2018年末の感想だった。

ジョジョ原画展の感想と、「情熱のバラ」

ジョジョ30周年の原画展「冒険の波紋展 大阪展」を観に行ってきた。
箇条書きでかんたんな感想を述べると、下記の通り。

・12枚が屏風状に並ぶ、等身大の原画
 目線、地平線、消失点をあわせて観ると面白かった。

・一人 とてもオシャレな観覧者の方があり、観てて惚れ惚れするくらい格好が良かった

・2部や3部のラストバトル 見開きシーンの原画が展示されている。
 1~3部までのカラー原稿にも個人的思い入れが深く、手元に持ち帰って飾りたいが… ムリな願いというものだった。


一方、前回の記事を更新した頃からブルーハーツを聴き始めているが、
何枚かのアルバムを聴き、すっかり気にいっている。

ブルーハーツというバンド名は「青い心」、青春の志というような意味合だろう。
いわゆる中二病?のニュアンスを持っているがテレずに歌い切る潔さが良いと思う。

「情熱のバラ」という歌を最近になって聴いたが、歌詞とメロディがまるで童謡だと思った。
悪口ではなく、少しヒネッた童謡を、テレずに作って歌い切っているところが良い。


ーー9月から12月にかけて転職をしたのですが、
結果的に、ブルーハーツの歌を聴き始めたときに転職活動を開始し、これが終わった後に「情熱のバラ」で〆て、収まりの良い感じになった。

ブルーハーツの歌に魅かれたのは、転職・転身をするときの気持ちが、
青春の志に立ち変えねばならないような、そんな不安定な事情があったからだろう。
ジョジョのシーンで言うと、2部のシーザーがヤサぐれていたときのような心情に、自分がなっているような感じもあった)

青春の志とは、きれいごとではなく、
中2病は子どもから大人への境目であり、人生の節々で断絶、変身せねばならない機会が誰にもあるものだと思う。

ガケの境目を、思い切ってジャンプして飛び越えるしかない。
ポコロコが愛馬で崖を飛び越えたときの心境、
それを上回るような大ジャンプを(2回以上は)見せたジャイロとジョニィのような、キャラクターたちの勇気は得難いものだと思う。


ちなみに、このブログのような長文で、思いついたままを一人合点で喋るのは良くない。
就職試験において面接官の心証を良くするには、簡潔、手短か、元気が一番である。
面接の心得とは「ボスに気に入られるかどうか」であり、小手先のゴマカシなどは不要。 --そのようなことを、改めて学んだ。