ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

ジョジョランズの「軽さ」 露伴が登場した理由を考察する

ジョジョランズ 露伴が出てきて、ジョディオと対峙する話にひとくぎりがついた。
シャムネコのスタンド使いが、どうも絵が下手な感じがするのだが、荒木先生はネコを描くのが苦手かもしれない。

ジョジョランズに露伴が登場したとき、なんのために露伴が登場したのか、その意図がすこし気になった。
実写映画の宣伝、荒木先生の思いつき、シャレ。作者が出したくなったから出した、ただの思いつき… 正解は分からない。
作者の真意は分からないが、いわゆるオールスター路線、過去キャラが無意味に再登場して懐古的お祭りになるのはあまり好きでないので、露伴がジョディオたちと対峙して、そういう路線にならなかったので一安心した。

ジョディオが「4つの円の短編」(岸部露伴は動かない ホットサマーマーサ)が良かったなあ と語るくだりがあり、たしかに、この短編は切れ味がよく面白かった。
露伴がマスクをかけて登場して、コロナ禍の現実に苦慮しているという、エッセイ的な身軽さが印象的で、ジョジョランズにもそんな、時代に通じよう、現代のノリ、身近な楽しさ、軽さを入れていこう というノリを感じる。

ジョディオたち4人は、ほんとうの(?)プロの犯罪者集団というよりは、まだ何者にもなっていない、未完成、未成熟な若者たちである。
犯罪をやっていることはたしかなので、罪への報いをどこで受けるか、やがて、物語のなかで語られていくのだろう。


なぜ、露伴ジョジョランズに登場したのか? こたえは謎だが、話のなかで、意味あるピースとして、露伴とジョディオの関係、露伴の存在が置かれていきそうなので良かった。

ひとつ わたし自身の想像をさいごに披露すると…
8部 ジョジョリオン露伴を出そうかという構想があったが、ジョジョリオン露伴(、あるいは露伴のリメイクキャラ)は登場せず、出しそびれたので、次の9部序盤に、8部との繋がりを出すキャラとして、杜王町露伴を出した。

ジョジョリオンは街を描く話で、狭く狭く、内にひきこもっていくかんじがあった。A4のコピー用紙を折りたたんでいって、どこまで折れば、月まで届く高さに近づけるか…というかんじ。
もとの話がA4コピー用紙1枚分なので、折って、折って、話が複雑になっていくが、最初を折り間違えると、あとを続ける、修正するのがなかなかつらい…。
ひとことでいうと、引きこもり的な良さ、(作劇上の)難しさ、両面がある話だったと思う。

ジョジョランズはハワイを舞台に選び、犯罪者予備軍(?)の若者たちを主人公に選んでおり、話が軽く、現代的で、「クズ」的な要素を散りばめ、15歳の若者たちを描いていこう という意図を感じる。
若返った物語展開が楽しいので、クズ的な主人公たちの生きざまを、現代とリンクしながら、軽やかに描いていってほしいものだと思う。

キン肉マン的軽やかさがあってもかまわないと思うので、次号の最新話で、いきなりシャムネコのデザインが変わって、いまのウサギ?ネコ?な不気味デザインから、リアル系のネコなんかに変わっていても面白い。
次号冒頭に注目したい。

デビルマン 全5巻を読む

 

今年のゴールデンウィークは身体をゆっくり休めようということで、5月3日からの5連休 何もせず、食べて、寝て、また食べて寝て…とゆっくり、なにもせず過ごしていた。
起きている時間はプロ野球を観たり、YouTubeを観たり、まったく生産的なことをせず、他には、マスクを外してスーパーに買い物に行ってみることくらいしかしなかった。

YouTubeで昔のマンガ、特撮、アニメなどの懐古チャンネルを見ているうちに、男塾からの流れで、永井豪 けっこう仮面デビルマンが出てきて、あれこれの動画を見た。
デビルマンの結末、ラストにいたる一連の展開を知った上で、デビルマンの漫画本が読みたくなり、岡田斗司夫の勧めにしたがって、完全復刻版 デビルマンを購入、1970年代 若かりし作者たちが描いた、原典の5冊を読んだ。

デビルマンを読んで、やっぱり凄かった。結末とラストへの展開、作品に込められたテーマなどを、前情報(爆笑問題永井豪の対談番組 これもYouTubeで観ていた)で得ていたので、サプライズの驚きは無かった。
サプライズは無かったが、やはりスゴイマンガで、マイナスの方向に突き抜けていく展開がすごく、コマ割りのうまさ、ストーリーのすごさ、予想を裏切り期待を裏切らない血みどろの展開に、ぐいぐい引き込まれ最後まで読んだ。

夜の海岸 主人公2人に巨大な光の軍団が迫る、最後の2ページがある。
ネタバレを知らず、中学生くらいの自分が週刊少年マガジンを読んでいて、思春期の心でこの話を読んでいたら、いったいどんな感想を持っただろうか…。 まっさらな心で読んで、向かい合ってみたかった、そんな稀有なマンガだった。


そして、デビルマンを読んで今更ながらに思ったのが、これは現在にいたるさまざまなマンガ、アニメの源泉、インスピレーションになっているに相違ない という事実だった。
エヴァンゲリオンチェンソーマン、寄生獣、東京喰種。これら諸作品をまともに読んだことは無く、傍目で観たことがあるだけなのだが、「ああ、なるほど…」と腑に落ちた。

ジョジョの荒木先生は、デビルマンを読んだとき小学校高学年くらいだったはずで、間違いなく、リアルタイムで読んでいた筈である。
jojo a gogo! 作者が読んだ小説や漫画のコーナーにデビルマンが載っていた気がするが、はっきりとは思い出せない。コミックス見返し 何かのランキングやコメントに、永井豪作品が触れられていたような気もするが覚束ない。
否、作者コメントやインタビューに頼らずとも、肝心の漫画作品 バオー来訪者の敵役 魔人ウォーケンが、永井豪作品の、あのモンスターのカオの描きかたをしている。
悪魔的なロックにのめりこみ、キングクリムゾンやピンクフロイドを聴きこむ10代を過ごしたという荒木先生は、自らの芸術体験のルーツのひとつとして、間違いなくデビルマンを通過、経験している。今更ながら、そのことが分かった。

(ついでにいえば、自分が読み込んだ漫画 ドラゴンヘッドで、伊豆の群衆が暴徒と化すシーンがあり、さながらデビルマンのクライマックスとそっくりである。望月ミネタロウ先生は最近 コミックエッセイを連載しており、東京怪童への未練を述べている。
 東京怪童 脳みそむき出しのモンスターは、あまりかわいらしい、子どもたちに受け入れられるデザインには見えないのだが、望月先生は、永井豪楳図かずお、東西ホラー映画を観すぎて、脳に影響を残してしまったのだろう…と思われる)


ジョジョという作品を観て、ヘンというか、変わっているところは、かつて斎藤環先生が述べた「過剰な健康性」、悪に対する善、善に対する悪がはっきりと描かれ、2つの対称・対立がくっきり、しっかり描かれているところである。
過剰な健康さ、過剰な健全さの変てこりんなところは、作者である荒木先生の作家性、善悪どちらに振れているのかよく分からないところもある、作家の個性につながっている。

ディオ・ブランドーの悪に対置するかたちでジョナサンが構想され、ジョナサンは概念的、抽象概念のような人物で、いま読むとあまり人物に血肉が通ってないというか、親近感を抱きにくい節もある。教科書に描かれる偉人像のような人物だ。
しかし、1部の物語を読んでいくと、泥水で口をそそぐエリナ、おせっかいやきのスピードワゴン、「あしたっていまさ!」と叫ぶポコとその姉。ジョナサンを囲む登場人物に、正義の心を体現し、物語を演じるキャラクターが複数登場する。
ポコであったり、川尻早人エニグマと戦った噴上の活躍。遺体を求めたルーシースティールの奮闘など、ジョジョには、あまり強そうでない、主人公でない人間たちの活躍する系譜がある。6部のラストを飾ったエンポリオもそうである。

ディオに始まる悪役たちの系譜と、ジョースター一族とそのまわりにいる人たちが織りなし、体現してきた正義の系譜。その二つがぶつかり、正義と悪、それぞれの戦いを描いてきたのが、ジョジョのサーガであり、物語なのだろう。
そしてその戦いは、9部 ハワイのジョディオの物語に続き、現在に至っている。


キン肉マン 週刊プレイボーイで連載中の物語は、ザ・マンとバッファローマンの戦いが終わり、次回 いよいよジェロニモネプチューンマンが塔の上で観た景色、「これは神も動くわけだ」の正体が述べられ、明かされようとしている。
デビルマンの神と悪魔の戦いと、キン肉マン 神と悪魔、人間(≒超人)の戦いは、かなり様相が異なっている。キン肉マンはきっと、デビルマンとは全く違った、神と悪魔、人間の戦いを描いていくのだろう。

ゴールデンウィーク デビルマンと並行し、気になったマンガ作品に「ちいかわ」がある。
仕事上の関係で、知人の方が読んでいて気になった作品で、1巻を買って、すこしずつ読んでいる。
「ちいかわ」と「デビルマン」の間に在るものが、現実の、地道な人生かな という気がしているゴールデンウィークである。

ジョジョ9部 ジョジョランズの連載開始

ジョジョ9部 ジョジョランズの連載が始まった。

 

以前 9部は死後の世界、老人の話を描くのではないか…と予想を述べていたが、予想は当たらず、ハワイに住む少年が富豪になっていく物語となっていた。

前作と違う舞台設定、主要人物の配置、物語の構造となっていて嬉しい。

前作8部が着地点の見えづらい物語になっていたので、その反動か、ストレートかつ明快な物語になっていて良い。次回以降の続きが楽しみである。

 

主人公のジョディオは15歳。作者の荒木先生は60才をすこし過ぎたくらい。読者(ブログを書いている自分)は46歳である。

私の子どもが15歳で、今春から高校一年生になる。ジョジョの最新部の主人公がわが子と同じ年齢になったか、自分も年をとったな…と思うが、一方で、いま、15歳の少年の物語を描く荒木先生の英気、チャレンジ精神に感服する。

 

9部の舞台は閉じた亜熱帯の島々で、たぶん、8部の杜王町や7部のアメリカ本土やネアポリス王国は、本筋に絡んでこないのでは と思う。

主人公の名前だけはなぜか投げやりな使い回し(定助、吉良、ジョディオ)だが、基本、新しい物語を、いまの時代の問題意識を、作者がいま描きたい物語を描いているのが、ジョジョのサーガなのだろう。

 

登場人物のジョディオがナレーターを務める語り口が新鮮だが、物語には2つの視点、登場人物であるジョディオの視点、そして作者である荒木先生の視点が盛り込まれている。

ふたりの中間年令(やや老年寄り)である自分も、ふたつの立場、視点を意識しながら、たのしく読み進めていきたい。

 

 

追記 2023/3/21

第1話を読み返していると、くりかえし出てくるフレーズがある。

 

姿・形はあるが目には見えない力

名付けて「スタンド」

それはいつでもどこの場所でも存在しているが、見ようとしない人が見ないだけである

 

仕組み(メカニズム)の頂点だ

今はまだ目には見えない

だがオレたちの目の前にその「メカニズム」が「姿・形」として現れて来るんだ…

これは亜熱帯の島々でひとりの少年が大富豪になっていく物語

 

これらのフレーズは、ジョジョランズの展開、物語の骨子を示したものである。

姿形はあるが目には見えない。矛盾であり二律背反のようだが、そんな概念がスタンドである。

スタンドだけでなく、夢や希望、幸せや人生といった概念も、そんなものかもしれない。

ジョースターとディオを掛け合わせたような主人公が、スタンド使いであり、目には見えない幸せやこの世の理、ひいては大富豪となっていく物語なのだろう。

アメリカンな哲学・世界観は自分好みであり、今後の展開が楽しみだ。

 

映画 ドラゴンボール スーパーヒーローの感想

ジョジョリオンの連載が終わり、ブログを書くタイミングが無くなっていました。ひさしぶりの更新となります)


映画ドラゴンボール スーパーヒーローを観に行った。
マンガとテレビアニメは追いかけていないが、神と神以降、ドラゴンボールの新作映画は追いかけていて、復活後 4回めの今作も、映画館で視聴した。
4本の映画のうち、今作がいちばんおもしろかった。

個人的に、バトルヒーローになってからのドラゴンボールにはあまり思い入れは無く、アラレちゃん、悟空が子どもだったときの丸っこい、かわいい絵柄の鳥山作品に思い入れがある。

今回の映画は鳥山明のもともとのテイスト 明るく楽しい、のんびりと抜けた雰囲気が全編にただよっている。
BAKOOON!など、アメコミ調の絵文字演出、レッドリボン軍やピッコロたちのセリフのかけあい、こまかなギャグのやりとりも懐かしく、くすっと笑える感じがあった。


ピッコロがパンをわざと誘拐するあたり、ピッコロが軍に潜入してそもそもバレないのか など、大人目線で観ると粗が出だすのだが、
子どもむけ、幼稚園から小学生くらいまでの子どもに作っているのだ、絵本、少年漫画を見ているような気持ちで観ると、そのあたりは気にならなくなった。

ドラゴンボールマニア向けに観ると、前作からの細かい設定が引き継がれていない、戦闘力のパワーバランスがおかしくなっているなど 粗を探せば、沢山出てくるかも と思った。
しかしながら、私自身は、1995年 ドラゴンボールが連載終了したとき、この作品世界が描かれることは二度とないだろう と思っていたので、
神と神以降 鳥山作品の続きが見られただけで、正直嬉しい。
連載最終回 悟空とウーブが飛んでいった先、プテラノドンドラゴンボールが空に浮かぶ数コマ、2ページほどのうちに「読者にお見せできる冒険はここまでです」と断り書きがあった、
作品世界の余白の部分を、膨らませて、4本の映画だったり、GT以降のアニメだったり、カードゲームの展開だったり、パラレルワールド的な形で、鳥山明以外のスタッフが関わるかたちで、ドラゴンボールの作品世界を語り続けている。

初代ウルトラマンが完結した後に、帰ってきたウルトラマン以降の昭和第2期が作られたり、果ては庵野・樋口監督によるシンウルトラマンが作られているようなものである。
ウルトラジャンプで、別の作者によるジョジョのスピンオフマンガが連載されているが、これも似たようなものかもしれない。
(個人的にはウルトラジャンプでは、ジョジョのスピンオフマンガの続きよりも、惰性67%の最終回がどんな終わり方をしたのか、タワーマンションのメイドマンガ 中盤~終盤へどんな展開をしたのかのほうが気になる。しかし、コミックスを買ってフォローしたいかと言うと、悩ましいところである)


鳥山明脚本によるこの映画を観ていて思ったのは、作者 鳥山先生はなにを思って、どんな動機でこの映画をつくり、キャラクターや場面展開、物語を考えていったのだろう?ということだった。
今さらお金儲けをしたいということではないだろうし、まわりのスタッフから新作映画をつくってほしいと言われてイヤイヤながらに作っただけでは無いはずである。

その答えをブログに書き連ねることはしないが、ドクタースランプギャグマンガ以来の、鳥山明の目線、テイスト、デザインセンス、展開のきびきびした感じが随所に現れ、新作マンガを読み進めるように映画を観ていった。

映画の中で何回か感動したシーンがあって、悟飯とガンマ1号が戦闘しているシーン、ガンマ2号の突撃、ラスト パンが空を飛ぶシーンなど、不覚にも涙する瞬間があった。

映画を観ていて、全般に、だいたい予想があたるかんじでストーリーは動いていき、子どもむけ映画としての安心感があった。
パンのキーン走り、cowa!のぬいぐるみがピッコロの家に置かれているなどのくすぐりも良かったが、
映画のラスト 戦いが終わって2号が散った空にパンが飛び、笑顔で締めくくるというのが、ベタかもしれないが良い終わりかただった。

ドクターヘドが就職できて良かったが、ガンマ2号は死んで戻らない というところで、全部が手に入らない、全ては元通り・願いどおりにならない という、普遍的な締めくくりだった。

映画のエンディングクレジット 鳥山先生が描いたものではない感じだったが、筋斗雲が飛び回るなか 世界各所を描いたラフタッチのペン画 雰囲気が良く、良い感じだった。


映画館を出た後 小学生たちが感想を述べており、「セルマックスが気色悪かった」と率直な感想を述べていた。
そのとおり たしかに気持ち悪かったな、と振り返ったが、映画を観ながら自分は、セルマックスは完全なやられ役、映画をしめくくるための悪役で、コイツが暴れてやっつけられないと、物語が終われない。かわいそうな存在だ という感じで見ていた。
特撮映画における悪役怪獣のようなもので、出番が終わって、裏の楽屋で休憩をとっているのではないかと思う。
気温35度を超える真夏日が続く中で、熱中症には気をつけてほしい。

ドラゴンボール スーパーヒーローは、映画を観終わった後 さわやかな感じを覚える、「よし、行ける。明日から頑張ろう」と思わせてくれる、良い映画だった。

やさしさに包まれたなら クレイジーケンバンドのカバーアルバムと、ジョジョリオンの完結

ジョジョリオンの連載が完結した。
個人的にはおおむね満足、納得な話の締めかたで、53話 過去編完結時に(自分が抱いた)3つの謎への回答は、最終回までに示された。
ストーリーの大筋、キャラクターの行く末、可能性を示した上で終わったのでおおむね納得だった。

こまかい伏線の投げっぱなし、話の入れ替わりがあったが、最近に発表された記事

<インタビュー>荒木飛呂彦『ジョジョ』シリーズでともに歩んできたプリンスを語る | Special | Billboard JAPAN

にそうならば、
「プリンスなら、こんな細かいことは気にしないだろうな」「作品づくりで、この壁を乗り越えて、次に進んでいくんだろうな」というかんじで、過去の描写をウッチャり、今 思いついた新しい話へ、話を書き換え、筆を進めていったのだろう。


NHKのワイドショーを観たのがきっかけで、クレイジーケンバンドが「好きなんだよ」というアルバムを出しているのを知り、買って、聴いて楽しんでいる。
1970~1990年代 ケンが好んで聴いていた邦楽を、自分のバンドでリニューアルし、自らのバンドサウンドとしてカバーしたアルバム。
これがかなり良く、個人的な音楽の好みと一致し、好んで聴いている。プラスチックラブ→DOWN TOWN、やさしさに包まれたなら→接吻のあたりが白眉。

以前 ジョジョリオン ジョジョ8部のテーマを横須賀ストーリーと認定する記事を書いたが、同アルバムにも、横須賀スト―リーが収録。
わたしは横須賀港、横須賀の街を訪れたり住んだことはまだ無いが、この歌を聴いていると、港町の風景、坂をのぼった港町の眺めがはっきりと目に見える。
(横須賀ではない)これまで訪れた港町、ゆかりのある街の眺め、訪ねた記憶を再構成していのだと思うが、歌を聴いていると、山口百恵、宇崎竜童、ケンバンド、美空ひばりと重なる景色を、たしかに感じる。

ケンバンドのカバーアルバムを聴いていると、しみじみとした感慨が湧く。
横須賀ストーリーに限らず、ほかの曲でもそうである。
わたし自身の音楽鑑賞、人生におけるさまざまな体験。松本隆山下達郎など、元曲をつくった人が歌にこめた思いや願い、ケンバンドが演奏に込めた独自の解釈、演奏。
自分と他人のさまざまな要素が積み重なって、重なったり、重ならなかったりする、そのありさまが豊かで、聴いていて楽しい。


以前 鳥谷敬が2000本安打を打った頃 仙台と東京を旅した記事を書いたとき、「時間の地層が積み重なるのは良いものだ」と書いた。

ケンバンドのカバーアルバムを聴いて感じるのも同様の体験で、45才になった自分だからこそ味わえる、中年ならではのしみじみとした良さなのかな とも思う。

時間の地層とは、時の試練でもある。
ジョジョリオンの連載完結後 コミック27巻が出され、(本格的に?)完結する。ひとつのユニットがまとまった後、どんな評価を受けるのか。

荒木先生が9部、10部…を描き、亡くなるだろう10~20年後 ジョジョのシリーズがどんな評価を受け、どんな読者に読まれているのか。20年後、22世紀に向けてのお楽しみとなるのだろう。

ジョジョリオン ラストに向けて、2点 よしあしの感想、予想

ジョジョリオン 院長のスタンドがとうとう倒され、ウルトラジャンプの連載があと2回で終わるだろう(コミック27巻で完結するだろう)というところまで来た。

 

本作のラスト、話の結びを予想する記事を前回に書きました。

ジョジョリオン ラスト、話しの結びを予想する - ジョジョ読者のブログ

 今回の記事は、その補完的なメモです。

 

ジョジョリオンがコミック27巻で完結するならば、前半 主人公 出生の謎を探る1~13巻、インターバルの14巻、後半 新ロカカカの実を巡る三者闘争を描く15~27巻と、だいたい等しい分量になる。
前半が、主人公の謎を探るミステリー、後半がロカカカを巡るアクションアドベンチャー 前後半の2部構成となっているのが、ジョジョリオンだと思う。


透龍、院長との戦いが終わって、ホリーさん、吉良家の行く末、東方家の行く末を描いて、物語が終わると思う。

ジョジョリオン ラストに向けて、2点 よしあしの感想、予想がある。

まずひとつめ 21巻以降の展開で腑に落ちないのは、収穫13分前 家族団らんの傍ら、つるぎがノリスケを引きずっていくシーン。
作者的には、上記のシーンに繋げて、今月号の場面(つるぎが救急車に向け、ノリスケを引っ張っていく場面)を描いたのだと思うが、21巻の描写と繋がっていない。

ムリくりに解釈すると、新ロカカカの実 収穫がされると、豆ずくさんたちが予想した時刻が、今月号 透龍が倒され、救急車が到着したころ。
東方家の皆が家族団らんしていたのは、つるぎがペーパームーンキングの能力をつかい、自分自身に「家族の幸せ」の幻想を見せつつ、半死半生のノリスケを2階から外へ運び出していた。
21巻 つるぎがノリスケを運び出すとき、スタンドのカエルがピョンと飛び跳ねていたので、誰かしらに幻覚を見せていたのは間違いない。それが、つるぎ自身だった…? というところだろう。

ブッチャけたところ 作者である荒木先生自身も、21巻 冒頭のシーンと、今月号の描写 噛み合うようで噛み合っていないのは、描いてる本人が分かっている筈である。
連載期間にして2年半余り、今回の戦いを書き連ねていく中で筆が乗り、キャラクターがどんどん激しい戦いに巻き込まれ、死んでいき、(21巻冒頭のシーン)当初のチョイ見せから、着地点が変わっていった というのが真相だろう。

ジャズライブのようなライブ感を重視している、ちょっと間違えること、やり直す、軌道修正も「味のうち」 荒木先生の執筆スタイルの現れである。


ーー一方、こちらは良い話で、 最終盤の戦いを思い返して感心したのは、定助が最後に、「見えないしゃぼん玉」を獲得したくだり。

豆ずくさんの解説では、無限に小さいひもの無限回転によるものと、素粒子物理学っぽい解説が為されていた。

定助のキャラクター設定を考えると、見えないしゃぼん玉には、もう1つ 意味が重ねられていると思う。
それはつまり、定助が身元不明の記憶喪失で、漂流者だったというところにある。

ジョースケという名前も、広瀬家で飼われていたイヌに由来する仮の名前であり、定助には、さだまった名前、所属、人生や生活の基盤となるものが、はじめ 何もなかった。

存在するけれども、存在しない。

この世界に存在しないがゆえに、あらゆる壁を越えていける というのがソフト&ウェット ゴービヨンドであり、これは定助にしか生み出せない、8部の結末を締めくくるための、ラストの大技だったのだと思う。


連載あと2回 ホリーさんの病気を治せるのか。吉良家、東方家の誰が生き残り、杜王町の未来を担っていくのか というところで、ラストのむすびが描かれるだろう。

個人的予想では、ここからのもうひと波乱、あらたな敵が現れてのスタンドバトルは無いのでは と思う。

定助は吉良家の生き残りであり、康穂とくっつく くっつかないみたいなところで、ホリーさん(ジョースター家、吉良家)の血脈を未来につなぐ というところで、生き残っていくのではないか と思う。


次回作 9部があるとしたなら、定助と康穂の子供、子孫が出てくるのが自然な成り行きである。

2011年より時間軸をさらに進めると、現代 2021年を越えてしまうので、あんまり近未来の話は、荒木先生は描きにくいかもしれない。

9部 定助の子供、親類縁者みたいなキャラクターは出てくるかもしれないが、(1~6部までの)血族の物語ではないので、あまり本筋には絡まないかもしれない。

9部が5~6部のリメイクを含むなら、キリスト教文化の中心地であるイタリアにて、聖なる遺体、等価交換、物事の理 このあたりのテーマやモチーフを活かしつつ、あらたな物語を紡ぐことになるのだろうか。

文化、宗教、人間世界の行く末というものは、無限の広がりがあり、語りつくせるものではないので、荒木先生の意欲しだいで、9部、10部…と無限に続くかもしれない。


キン肉マン 最近のウェブ連載は盛り上がってきており、スグル、フェニックス、ビッグボディ 30数年ぶりのタッグマッチと友情締結は、けっこう胸が熱くなるものがあった。
プラトンを模したと思しきイデアマンも、ばかばかしいようで誠実さもあり、面白いキャラクターだった。

ジョジョは、キン肉マンとはちょっと違い、旧作を直接 描き繋ぐ続編を描くことはしてきていない。

しかしながら、ジョジョキン肉マンも、30数年 作者が書き連ねてきたシリーズであり、作者の人間観、人生経験、マンガ家としての魂が、厚く塗りこめられた作品であることは確かだ。

いつまで新作が読めるか分からないが、読者としても襟を正して、寝っ転がったり、駄菓子を食べながら、マンガを読み、楽しみたいものだと思う。

ジョジョリオン ラスト、話しの結びを予想する

ウルトラジャンプジョジョリオン連載 透龍くんにしゃぼん玉がいよいよ当たろうかという無音の2ページで今月号が終わって、次回掲載は2か月後 4月下旬発売号を待つことになった。

ジョジョリオン あと1~2回の掲載で連載終了、岩人間との戦いが終わってエピローグ、結びに入っていくのではないか と思う。

当たらない予想を、(連載完結前の今だからこそ)記念に書いておくと、下記のとおり。


岩人間 透龍が倒され、ロカカカの実を定助たちが手に入れる。

ワンダーオブユー コミックス21巻の冒頭、東方家が家族団らんしている裏で、つるぎがノリスケの死体を隠している描写があった。
現在までの展開と繋がらない感じが濃厚だが、つるぎ、ダイヤあたり なんらかの幻覚、スタンド能力を見せていたとかで、(上の描写を無かったことにはせず)つじつま合わせをするのではないか

岩人間との戦いが終わった後 東方家の未来を展望する話に、局面が移る。
花都さんが東方家に現れ、メチャクチャになった家族の復興になんらかの役割を果たす

密葉さんのお腹にやどった第二子の赤ちゃん、長男のつるぎに、東方家の将来を託していく流れとなる


ロカカカの実 新しい小さな実が実っているが、たぶん、これを誰かが食べても、ホリーさん、東方家の問題はパーフェクトには解決しない

つまるところ、ホリーさん、東方家 定助を含めた皆が、「岩になりつつ」、杜王町の生を受け入れていく


苦しみを受け入れつつ、前に向かう。 

呪いを解く物語 呪いを解くとは、呪いがきれいさっぱり雲散霧消することではなく、呪いを受け入れ、前に進む。 

「生きる力」を手に入れることが呪いを解くことであり、定助や康穂たちが得た救い、福音だったのだ --こんな結びになるのではないか。