ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

魁!!男塾 硬派な男のカッコ良さとバカバカしさ、リアリティとファンタジーの境目、はざま

魁!!男塾 34巻セットを中古本で購入、三連休に読み終えた。

小学生のころ 週刊少年ジャンプで読んでいたときは、荒くれ者の不良が暴れ回る怖いマンガ、延々と続くバトルものの印象があり、一押しの漫画では無かった。
兄がボギーthe greatの単行本を持っていて、暴漢が女性をひんむく映画をボギーが見ている、というシーンがあり、宮下あきらにバイオレンスの匂いを強く感じ、避けていた節もあった。

子どものときは、秀麻呂が鉄板焼きの上で跳ね回るイジメを受けたり、暴力、イジメを連想させるシーンが苦手で、子どもながらに、身近にひそむイジメの恐怖におびえていた。
去年かおととしの冬 酒屋の店頭で江田島平八の焼酎を見かけて買ってみたり、男塾のYouTubeまとめ動画などを観ているうちに、男塾への興味が再燃。
34巻をとおして読み返したわけだが、大人になった今では、不良やヤクザにびびることなく、おおむね面白く読み終えた。
以下 男塾を通し読みした感想を語っていきたい。


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子どものときは、男塾のあらくれぶり、不良ぶりがどうしても苦手。北斗の拳も同様の理由で苦手だった(はじめて読んだジャンプがキバ一族の話で、絵が気持ち悪かったのを覚えている)

いま読むと、宮下先生のバンカラごのみ、豪傑、男へのあこがれ。Wikipediaにも述べられている「硬派な男のかっこよさと、ばかばかしさ。その両面を描いていきたい」という作者の意図が、よく分かる。
なので、男塾のごっつさ、豪快さ、ばかばかしさを、受けとめ、楽しみながら、1巻より読み進めることができた。

読み通して思うのは、(大多数の男塾ファンの方には申し訳ないのですが)自分の好みはいささかナンパより、軟弱で、
バトルものの面白さかっこよさもさることながら、日常話、学園ものの男塾に、より面白さを感じる ということだった。

個人的に男塾で面白かったのは、1巻2巻、油風呂や秀麻呂、富樫がバーさんの厄介ごとに巻き込まれる日常話。4~5巻 関東豪学連との命を懸けた男の勝負。34巻 風雲羅漢塾とのエピローグだった。

秀麻呂と椿山の話は子どもながらに印象に残っていて、今回 読み直しても、そのときの印象は同じだった。
最初 イヤな奴だった秀麻呂が、桃太郎たち仲間のために300kgの旗を持ち上げる。
松尾と田沢、鬼ヒゲのやりとり、人情話。
椿山が小鳥を大事にしているエピソードに始まり、全編を通して、宮下先生は動物好きだなあ という印象があり、雷電がサルを大切にかわいがっているエピソードなども印象深い。

自分が宮下マンガをもっとも面白いと感じるのは、硬派な男のかっこよさと、ばかばかしさ。リアリティとファンタジーの境目、はざまにある。
その意味で、藤堂兵衛との戦いを通じてバトルの極限、この世の勝負、スポーツ、ありとあらゆる戦いの全てを描き尽くした、出し尽くしたのではないかと思われた男塾が、
最後、地元の商店街に帰って、暴力団事務所への殴り込みで貫目と団結心を競う、リアリティ寄りの展開に戻ってきたのは嬉しく、何ともいえない読後感の良さがあるエピローグだった。

男塾1巻の1ページめを開くと、「死ねい貴様ら!死んで祖国の御盾となるのじゃーーっ!」の鬼ヒゲの絶叫から物語が始まる。
文部省の役人が撮影した男塾の授業風景で、1980年代の現代でこんなばかばかしい、時代がかったスパルタしごきをしている奴らがいるんですよ… というところから物語が始まる。

宮下あきらは、いわゆる軍国主義者ではない。戦争や暴力、力による支配を肯定しているわけではないが、ないがしかし、男の生きざま死にざま、硬派の生きかたというものは厳として求めており、
1980年代中盤 好景気の平和な日本において、いかに男のいきざまを求めうるのか? 作者の問いかけと共に、男塾の物語は始まる。

江田島平八が文部省の鼻の穴に指をつっこみつつ、「男塾の学生は落ちこぼれなんかじゃねえ。こいつらこそ、政治文化経済、これからの日本の中枢をしょって立つ若者たちよ」と宣言する。
その伏線は風雲羅漢塾とのエピローグで回収され、熊田と江田島が自らの教え子たちを讃えあい、地元の飲み屋にふたり肩を組んで消えていく というところで、男塾の物語は終わる。


リアリティとファンタジーの境目、はざまとは、ユーモアをどこに入れるか、という問題でもある。
宮下あきらに限らず、すぐれたマンガ家はすべからく、ギャグ、ユーモアの名手である。
原哲夫ゆでたまご荒木飛呂彦鳥山明手塚治虫… 枚挙にいとまがない。

マンガを描く、創作するという行為は、(素人である自分がおこがましく、噴飯ものの憶測ですが)
つくりての中で自己対話を重ね、時間軸の流れの中で他者との対話を重ね、主観客観、さまざまな視点や意見、考えの中で練りこまれるものではないか と思われる。

そして、自己内対話、自己と他人の対話を繰り返す中で、客観性の発揮として、ギャグ、ユーモアが練りこまれる… 創作とはそんなものではないか と、個人的には捉えています。

 

男塾 1話、大日本帝国陸軍を模した突撃訓練をツカミに、江田島塾長と文科省の対決、直進行軍のとんでもないドタバタで物語が始まる。
男塾の猛者たちはどう見てもふつうの高校生ではなく、これはふつうの人たちではないですよ…という体裁をとりながら、ときに、小中学生の琴線に触れる人情話をやり、ドタバタをやり、カッコいいバトルものをやり… と、エピソードを積み重ねていく。

バトルものとしての男塾、その後のストーリー展開の基盤は、伊達たちとの戦い、コミック5巻までで出来上がっている と、私は見ている。
「お、おまえらはーーっ!」ではじまるキャラクターたちの復活から始まり、次の敵へ、次の敵へ、もっとすごい戦い、もっと面白い戦いを見せる。このキャラクターはもっとこんな魅力が描けるのではないか という試行錯誤を積み重ね、激しいバトルが描かれ続けていく。

バトルものの描写が限界に達し、読者からの人気の維持が一定ラインを下回り、連載の打ち切り、終了が決まる。
そこから10週、連載を終え物語を締めくくるにあたり、宮下先生は超人的な戦いを終え(キャラクターの超人拳法を封印し)、男塾に戻る。
風雲羅漢塾との対抗戦を通じて、男塾とは何ぞやを総括し、そして卒業式を迎え、主人公たちと読者を、リアリティーーマンガの外へと送り出す。

 


ギャグマンガでもなく、バトルマンガでもない。複雑微妙、多種多様な側面を持つ男塾というマンガを、ひとことで語りつくすことは難しい。
長文を書きつらねてきたが、なかなかうまくまとまりません。

独眼鉄が「男とはなんぞや、人生とはなんぞや」と問いかけた、問答の答えは、作品の中に散りばめられています。

キャラクターたちの設定や言動に矛盾、食い違いがあったりしますが、そんな細かいことはどうでもいい。
宮下あきらが男を描きたいと思って描きはじめて、男の根幹はブラさず、ひとつの幹を、男のいきざまを描ききった。
それが男塾というマンガであり、そのときどきで宮下あきらが最大の読者サービス、面白いと思う戦いをふるまい続けた、その結果が、全34巻に展開された、バトル、エピソードの数々なのだと思います。


男塾を読んで、1つだけ引っかかるところがあります。
美形キャラ、ベルサイユのばらっぽい男装の麗人キャラが出てきたときに、富樫と虎丸が「オカマに負けてどうするんじゃ~~っ!」と煽る。しかし、やわな見た目と裏腹に男気が強く… というパターンがあります。
30年くらい前の連載なので仕方ないですが、2020年の現代ではちょっと、問題になりかねない。
男と女のジェンダーについて、ちょっと古臭い、現代的ではないところもあります。

家族に男塾を薦めていたのですが、妻、子ともに男塾を読みたがる節はありません。
「男を磨け!!」
「女の中にも男はある。男を磨け!!」

悦に入って、江田島塾長ばりに声を張り上げるものの、何をバカなことを言っているのか…と笑われるのが、わたしの家族まわりのリアリティであるようです。