ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

種の起源、超ひも理論、ジャパニーズホラー アリの目タカの目で、ジョジョリオンを深読みする

ウルトラジャンプ2020年8月号 透龍君の出生が明かされ、人間(ホモサピエンス)と岩人間 炭素生物とケイ素生物の同異が解説される回を読んだ。

とても面白く刺激的な内容の話で、(残念ながら、先月くらいのブログ記事で書いた)透龍はただの医学生で院長が黒幕 という、私の予想は外れてしまった。
3~4年前くらいから、ポツポツ ジョジョリオンの展開予想をブログに書いているものの、
ストーリーのアウトライン、テーマの掘り下げみたいなところはともかく、毎回毎回の展開予想、エピソードやキャラの積み重ねみたいなところは、まったく、予想が当たらない。
「予想は裏切り、期待は裏切らない」という言葉があるが、そういうどんでん返しの連続が、おもしろい連載マンガの条件なのだろう。

先月号 第98話の感想に戻るが、院長が「長旅をしている者が最も事故に遭いやすいのは帰宅直前だ」とつぶやくシーンがある。
身につまされる箴言だが、「家に帰るまでが遠足です」と同じく、リスク管理、安全管理の要諦である。

院長のセリフは、SBR ジャイロとジョニィがアメリカ大陸横断の旅を振り返る一幕をほうふつとさせるものがあるし、
先月号くらいから、豆ずくさんと定助のやりとりでも、
天と地の間を見渡す壮大な感じが出てきたり、主人公が回転するしゃぼん玉を武器とし、友人どうしの信頼を武器に戦うことを発言したりと、
7部から8部へと引き続く、物語のクライマックス感が出てきている。

定助の回転するしゃぼん玉は、先端の物理学 超ひも理論あたりをエッセンスに持ってくるのではないか と、以前に予想していた。
「回転」というキーワードを、7部から引継いで使いたかったための引用で、この先あまり掘り下げることは無いかもしれない。
しかし、今月号までの描写だと、主人公サイドが院長と透龍に打ち勝つための手が見えないので、形勢逆転の秘策として、回転するしゃぼん玉の、何らかのパワーアップ、ものすごいバージョンアップが出てくるかもしれない。

私は物理学に疎く、雑誌のニュートンWikipediaのかじり読みしたくらいしか分からないのだが、無知蒙昧を覚悟で言うと、
シュレーディンガーのネコ」、状態の重ね合わせ。
定助はそこに居るかもしれないし、そこに居ないかもしれない。
透龍と院長も2人の人間が同時に重なっていて、そこに居るかもしれないし、そこに居ないかもしれない。同時に居るようであり、かつ、どこにも居ない。

そのような、日常素朴の常識では測りづらい物理現象、素粒子物理学の最先端で測り明らかにされつつあるような現象をもって、
透龍と院長の謎を明かし、2人の合体人間であるような定助の特性も活かされ、ロカカカによる生命融合の現象も解きほぐされるような、なにかものすごい力技をやってくるのではないか。

「岩人間は社会生活を持たない。ハチミツが好き」と数行の記述から、今月号の冒頭にあったような透龍の出生話まで、お話を膨らませることができるのだから、
荒木先生であれば、何かとんでもない、デタラメでもありながら面白い、そんな展開を持ってくるのではないだろうか。


また先日、ひょんなきっかけからダーウィン 「種の起源」(光文社古典新訳文庫 上下巻)を買った。
パウルクレーっぽい表紙絵につられて選んだら、挿画は望月某という日本人イラストレーターによるもので、エッ!と思ったが、これも分化の歴史をあらわす一つなのかもしれない。

(長大な本文を読み通すのは大変なので、まずは)訳者解説を読んでみたところ、ダーウィンが述べた種の起源、のちに続く進化生物学の発展 これは丸っきり、今月号のジョジョリオンで描かれていた内容だな… と頭に浮かんだ。
荒木先生が、ダーウィン種の起源に始まる生物学の論争、理論の発展を知っていて、これらを元ネタに岩人間と主人公たちの戦いを描いている、といったほうが正確で、
いわば、8部ジョジョリオンの元ネタの一つは、種の起源である というところである。

種の起源 同文庫本のしおりには、(私のような生物学に疎い)一般読者のために、用語解説の書かれたしおりが付いている。
引用すると、下記のとおり。

生存闘争 = 生物が生存可能な数以上で増えるために起こる存続をめぐる闘い

自然淘汰 = 個体における有利な変異を保存し不利な変位を排除する、自然による選抜の過程

創造説 = すべての生物は神が個別に創造したものだという説

交雑と雑種 = 遺伝的なタイプの異なる個体間での受精や受粉、すなわち交配を交雑という。またそれによってできる個体が雑種

雑種の不稔性 = 交雑によって雑種ができない場合と、雑種はできるがその雑種に生殖能力がない場合がある


ーーいかかがでしょうか?

岩人間とロカカカの登場、誇り高い農民である豆ずくさんの哲学・社会観など、上記 種の起源の用語集からビビビッと来るものがあって、
「普遍的で大きな物語」を荒木先生が今作で描こうとしているのだな ということが伝わります。

これに、犬神家の一族~近年の貞子、犬鳴村なんかに通じるジャパニーズホラー、近代日本の個人と家族を巡る生きかたの問題をからめ合わせれば、
ジョジョシリーズ8部 ジョジョリオンの基本設定、材料のレシピが出来上がり というところではないでしょうか。


今月号の前半で、わずか3~4ページの描写ながら、石仮面とディオ~スタンド、弓と矢~悪魔の手の平、杜王町の地面。
ルーシーの若妻時代とその後、ジャイロとジョニィ、エルメェスとエンヤ婆の再登場 と、往年のファンに懐かしい一幕がありました。

これらの描写は、単なる懐古、ファンサービスではなく、
今作 ジョジョリオンで描かれつつある展開は、1部~3部、1部~7部までとつながった一連の展開、まさにジョジョシリーズの最新の展開。
番外編でも他と途絶した物語でもなく、30年に渡って積み上げてきたシリーズの、現時点の最新のクライマックスですよ という、作者からのインフォメーションだろう。

であれば、先月号くらいからとみに描画のテンションがあがり、場面場面の絵が丁寧で、力感が高まってきたのも頷けるというものである。


種の起源 交雑と雑種、雑種の不稔性の概念は、モロに、岩人間 透龍の誕生を連想させる。

作中では、理那(ジョニィの妻)が折り紙のように、岩のような皮膚になった描写が描かれたのが初めだったが、東方家に遥か昔から受け継がれてきたらしい石化の呪い病。
これも、はるか昔の東方家のご先祖が、どこかで岩人間と交わったこと、交わらないはずの交雑、雑種が産まれたことが、後々の禍を呼び込むことになったのだろう。

ジョジョ 1巻のはしがきで、作者は、「人間」と「人間以外のもの」の戦いを通じて生命賛歌を描きたい と、シリーズの抱負を述べている。
この文章自体は、コミックス発売に際して急かされた半ばヤッツケ?の文章である と近年のインタビューで作者は述べていたが、
これは荒木先生のテレ隠しであり、
文章そのものが書き出された当初 必ずしも沈思黙考して書かれたものでないにせよ、
1部、2部…7部、8部 30年以上に渡りシリーズを書き連ねる中で、繰り返し頭に浮かび、考え抜かれたアイデアの筈である。

ジョジョシリーズは、石仮面を被り吸血鬼(超生物)となったディオとジョナサンの戦いに始まる、人間と、人間ではないものとの戦いである。
2つの異なる種の戦いを通じて、人間とは何か 人間というものの姿を描き出し、生命賛歌を歌う。
このコンセプトを、60歳を迎えた作者が、いまの杜王町で描こうとしている。

かつて、4部連載開始当初にあったともいう、「次の1000年を支配する何かが、杜王町の地下に眠っている」というアイデアを、
7部 悪魔の手のひら、8部 (聖なる遺体のご加護で力を持ったのだろう、)杜王町の地面で、数十年の間隙を挟み、描き出そうとしている。

作家の仕事というのは、10年~30年、長いスパンで描かれるものでもある と改めて思う。


もちろん、ここで書き連ねたようなストーリーやテーマの深読みは、私個人の憶測によるところも大きいし、
ストーリーやテーマのもっともらしいこじつけをすれば、その話が面白くなる という訳でもない。

キャラクターやバトル、描写や構図、場面展開のカッコ良さというものこそがマンガの要諦で、
ストーリーやテーマの深みは、それらの後ろに隠れた、大きな、目に見えづらい構成要素だろう。

アリの目とタカの目 目の前に見える現実と大所高所の全体像 なにごとにも2つの視点(構成要素)があると思うが、
そんなところで、ジョジョリオン、荒木マンガ、いろんなエンターテインメントを噛み砕き味わえると、複眼的でけっこう面白いのではないか と思う。

キャラクターは作者自身の投影である 独断と想像のメモ

マンガに描かれるキャラクターは作者自身の投影である。
荒木先生の「漫画術」 キャラクターづくりの章で、そんなことが述べられていた。

理髪店に行ってヒゲソリをしてもらっていたところ、アヌビス神にとりつかれた散髪屋さんとポルナレフのやりとりが目に浮かび、
アゴの下だな ポルナレフッ!」と叫んだ次のコマは、擬音がトドドドドとなっていたなと思い出しつつ、ふと頭に考えが浮かんだ。

作者 荒木先生の人格がどのように分解されて、キャラクターの骨格を作り、肉付けされているのか?
客観的な根拠は全く無く、私自身の独断と想像 メモを記します。


・作者自身の、素の性格(静かな、大人しいところ)  

花京院

花京院をもっと悪く、すごくした発展形がディオ、吉良吉影


・作者自身の、素の性格(明るいところ)  

仗助

仗助をもっとヒーロー風に飛躍・強調させた発展形がジョセフ


・倫理、規範 (世間、他人が定める理想像)から作ったキャラ  

ジョナサン、ジョルノ


・憧れ(自分の中にある、情感を伴った理想像)から作ったキャラ  

承太郎、露伴ブチャラティ


・他人の観察から生まれたキャラ  

ジャイロとジョニィの兄弟的コンビ

康穂などの女性キャラクター

ポルナレフに始まるお調子者系のキャラ

プッチ神父、大統領、院長 社会的地位や役職を得ているキャラ

 


ーー思いつくところ、ざっとこんな感じでした。

当然のことながら、上記の類推、憶測に客観的根拠は何も無く、ただの想像の遊びです。

作者自身のプライバシーをストーキングしたいというよりは、
作品のベースにある作家性、暴れ回る孫悟空を手の平に納めるおシャカさま、おシャカさまの人柄を知ればより西遊記の物語を楽しめる(?) そんな趣で、以上のメモを作成してみました。

ジョジョリオン ラストバトルの構図

ウルトラジャンプ2020年7月号、レッドツェッペリン「CODA」風のフォントがカッコいい表紙の回を読んだ。

今月号 作者の絵を描くテンションがとみに上がってきていて、ロングの小さな人物でもジャガイモのような顔の崩れた表情が無く、ピシッと絵が決まっている。
2~3部 20~30代の作者が描いていた頃の、筆圧の高い感じを思わせる絵になっており、ハイボルテージ、描くテンションが高まっているのを感じる。

ジョジョリオンはいよいよラストバトルの様相が固まってきて、
病院での戦いと東方邸での戦い、この2つが1つにまとまり、定助の戦いが終わるところで、新ロカカカ 収穫の時を迎えそうな感じである。

今月号の話(病院のラボで、院長のスタンドと定助たちが対峙した時点)からあと2時間ほどで、ロカカカ収穫の時がやってくる。
コミック21巻 ザ・ワンダー・オブ・ユー の冒頭で、常秀たちが一家団欒する裏で、つるぎが秘密裏に行動しているシーンが、収穫の10分ほど前。

8部前半 コミック1~10巻くらいの展開では、エピソードごと、あるいは毎月の連載ごとに設定や伏線が二転三転する印象のあった今作だが、
コミック21巻以降の展開は、作者もおおまかな構想を練ったうえで、キャラクターの行く末を見据えて、伏線を回収しつつ描いている筈である。

ロカカカ収穫 10分前の場面まで、今月までに描かれた荒れた事態からどうやって繋がっていくのか、「謎解き」の腕の見せどころである。


ジョジョシリーズのラストバトル、クライマックス 最後をどう盛り上げるかについては、1部、2部… シリーズごとに、意識的に趣向を変えてきている節がある。

8部 ジョジョリオンの場合、ラストバトルの構図として、「謎解き」をテーマに、今の展開を描いているように思う。

ジョジョリオンは、マンションの一室でのトリックバトルから始まり、二玉の主人公の出生と記憶の謎を探るところからストーリーが始まり、
東方家の家族模様と病気(生死)をめぐる展開で話を膨らませつつ、ロカカカと岩人間の設定を投入。
主人公の設定を中盤で明らかにした後、ロカカカ争奪戦に話をスライドさせ、現在に至る。


ジョジョリオンのラストバトルは、いくつかの「謎解き」を並行して疾走させつつ、話の興味を引っ張っている。

ザ・ワンダー・オブ・ユーの冒頭 一家団欒の裏で憲助さんが瀕死になっている、この場面にどうやって話が繋がるのか

・ロカカカの実を手に入れるのは誰なのか

・院長と透龍は何者なのか

・院長のスタンド能力に弱点はあるのか。どうやって倒すのか

・院長を倒し、ロカカカの実を手に入れた後 誰を治療するのか


吉良家の人々(ホリーさん、吉彰の妹)、東方 花都さんの出番が巡ってこなさそうな気がするが、
院長とのラストバトルが終わった後、エピローグ的なエピソードの中で、吉良家、東方家の人たちの出番が回ってくるかもしれない。


今月号まで読んでいて、予想がつかないのが院長と透龍、2人の正体。

私の予想では、ラスボスはあくまで院長であり、院長は実在する人間。
スタンドや幻影ではなく、再生医療の講演を行ったり、記者と対峙したのは、実在する岩人間の院長。

スタンドバトルとして、遠隔自動攻撃のスタンドを襲わせつつも、院長本体がどこに居るか分からない。院長の正体が何か分からない? というところで、ラストバトルの筋を引っ張っているのだと思う。

一方、透龍は康穂の元カレであり、なんらかの術によって院長に体を操られ、ロカカカ収奪のために利用されている。
透龍が岩人間の黒幕というのはちょっと不自然な気がする。
いかにも怪しいと思わせる登場をして、実際に黒幕かという言動をし始めて、最後にはただの利用された元カレだったということが分かる。そんな展開ではないかと思う。

院長と透龍の描写を見ていると、遠隔通信している、一心同体、院長の魂(の一部?)が透龍に乗り移って操っている? みたいなイメージ、予想が湧く。
5部の終盤でキングクリムゾンがトリッシュにとりついたり、4部で吉良が川尻と入れ替わる展開があった。
過去作と同じアイデアの焼き直しは避けるのでは と思うが、なんらかの形で、院長の正体が別のところにあって、それを最後に突き止めるところで、バトルの決着が付くのだろう。


今月号 羽先生のラボでひとり椅子に座って動かない定助は、3部の承太郎のようなクールさがあり、凄みを感じさせる絵力があった。
豆ずくさんは「驚き汗」をかきつつ、解説役に回っている。

今月号のラスト 大きな見せゴマでなく、小さなコマの会話のやりとりで最終ページが終わるパターンは珍しく、演出、展開が切れている感じがある。

あと半年、1年経つまでにジョジョリオンは連載完結するのではないか と思うが、さてどうなるか。ここからの展開が楽しみである。

ジョジョリオン 2020年4月号の感想

ジョジョリオン 2020年4月号、「終わりなき厄災 その1」を読んだ。

2019年の年明け、密葉とつるぎの親子が学校でいじめられる話(コミック21巻、冒頭の一話)から話がつながって、
今月号でひとつの節目を迎えた感じだった。

東方家の対立、康穂たちとの緊張関係が表面化して、盛り上がってきた。
常敏が運命に翻弄される哀しい男、
終わりなき厄災を仕掛ける物語上の黒幕が院長ということで、話の筋が収斂し、引き締まってきて面白い。

終わりなき厄災、何とも意味深なタイトルであるが、
ジョジョリオンの時代設定を考えると、東日本大震災以降 日本に現れてきたさまざまな厄災、禍、不幸。さまざまなものを象徴している と見てよいだろう。


コミック21巻 冒頭のエピソードからのつながりを見ると、
・つるぎはどうやってスタンドの暴走(体の折り紙化)から回復して、普通の体調に戻ったのか
・常秀たちが呑気な一家団らんの雰囲気に戻っているのはなぜか
が、依然 謎である。

私個人の予想では、次男たちの一家団らんは、つるぎのスタンド能力で幻覚を見せている。
これまで東方家の家族たちが団らんする様子を描いてきたが、最後のところで、偽りの団らん風景を演じる。
家族関係への皮肉を描いているのではないか。

ロカカカ収穫の前に、つるぎが果実を食べて健康を回復しているとは考えづらい。
冒頭の一話 つるぎがゴソゴソ死体(?)を隠そうとしているが、
実際にはつるぎではなく、(ペーパームーンの幻覚で、つるぎに擬態した)常敏だった とか、何らかの仕掛けがあるのだろうか。


家族関係のドラマでいえば、
密葉さんが康穂をトイレに流そうとしたとき、夫の言うままに彼女を殺そうとしたのか、それとも下水道に流して助けようとしたのか。
どちらともとれるような、曖昧な描かれかたをしている。

密葉さんからみて、夫と息子、家族以外の人(康穂たち) どちらを取るかは微妙な選択で、
密葉がどちらを選択したのかは、どちらとも取れるように、曖昧な描きかたをされている気がする。

物語の最後 常敏は死んでしまう気がするが、密葉さんのお腹にやどっている第二子が、東方家の未来への希望となって、これから先に引き継がれていくのではないか と思う。


展開の都合上 カレラ、虹村さんはもう出てこない気がする。

もしかすると、定助が小包を送った先が、吉良家の屋敷で、虹村さんがそれを受け取ったところに、院長が攻めてくる。そうした展開でないかぎり、ちょっともう、虹村さんが出てくる予感がしない。
でも、オージローが突然 再登場して、今月の話で意図をもって登場の筋がまとめられたので、
吉良家の人々のありかたも、これから先、筋をもってまとめられていく気もする。


常敏を中心とする東方家の騒動 残るキーパーソンは花都さん。

院長とホリーさん一族の戦いで、残るキーパーソンは透龍くんのような気がする。

院長がもたらす厄災に手繰り寄せられつつ、吉良家と東方家の騒動がひとつにまとまり、ロカカカが実り誰に用いられるかで、物語がクライマックスを迎える按配である。


ついでに細かく気付いたところを言うと、今月号の話くらいから、院長の後ろ頭 髪型がパンチパーマ、東大寺の大仏のようなブツブツ頭になっていた。

ジョジョ展 長崎でみたキャラクター設定書では、羽先生の頭を「パンチパーマなのに直毛」と記していた。羽先生の髪型に院長を揃えてきた気がするが、
エセ仏教(?)的な宗教の虚妄へのディス、人間が死生を司ろうとすることへの自戒を込めて、ブツブツ頭の螺髪が設定されている --と言ったら、いかにも深読みが過ぎるのだろう。

 


連載期間であと1年くらい、コミック25~26巻くらいでジョジョリオンが完結するペースだろうか。
コミックでまとめて読むと、1~13巻で定助の過去が判明するまでの前半、14巻がインターバルで、15巻以降が新ロカカカの実を争奪する、これから先の未来を探るための後半 となるのだろうか。

14巻 ミラグロマンのお金の呪いで、常秀が主役のエピソードがあった。
とても現代的な、矮小な日本人、リアルな若者(私自身を含めて、身近な人たち)の話を描いていて、箸休め的な立ち位置で、面白いエピソードだった。

今月号の話で、生死ギリギリの康穂を救ったのは間違い無く常秀で、これから先、東方家の人たちのドラマが楽しみになる展開だった。

キン肉マンシリーズの概観 正→反→合の弁証法で、テーマやストーリーのつながりを読む

(ほとんどジョジョと関係無い記事になり、すみません。キン肉マンシリーズについて語っている記事です)


キン肉マン1~36巻、37巻~現在までのコミックを揃えて読んでいるが、
キン肉マン2世については、まだ読んだことが無い。

何となく、「2世もの」という発想が好きでは無くて手が伸びないのだが、
この前 ふと思いついて、キン肉マン2世のあらすじをネットで調べて読んでいた。

弁護士でキン肉マンファンの方が居り、悪行超人の血統(ヒカルド、アシュラマンの一家、時間超人)に触れたものがある。
誠実な筆致、ひかえめな文章から覗くお人柄に、弁護士として仕事を依頼したいと思わせる方だった。

熱心なゆでたまごファンの方々には申し訳ないのですが、キン肉マン2世のあらすじを読んで、コミックを読んでみたいな とあまり思うことは無かった。

実物を読んでいないのに感想や批評を語ることはできないものですが、
あくまで現時点の、大まかな考えの整理ということで、お許し頂きたいと思います。


 ***


キン肉マンの旧作(1~36巻) → キン肉マン2世 → キン肉マンの新作(37巻~の展開)

キン肉マンには、大きく分けて3つのシリーズがある。

時系列上は、キン肉マンの後にキン肉マン2世が続くことになっているが、
シリーズ間の辻褄が合わなくなってきており、2世と始祖編はパラレルワールドなのだろうか、あるいはどちらかを黒歴史として抹消しようか という意見もある。

設定上の辻褄はともかく、作者 ゆでたまごの意図として、どちらかを黒歴史として無かったことにするなんてヒドイことは有り得ない。

作家の執筆活動の必然として、キン肉マン→2世→キン肉マン 新作は繋がっている。

キン肉マン→2世→キン肉マン 新作の展開は、正→反→合の弁証法にそっている。

ーーそんなことを、キン肉マン2世のあらすじを読みつつ考えていました。

 

キン肉マン2世のあらすじ、悪役超人たちのエピソードをたどっていくと、
人間には覆せない壁があり、出自や育ちによって正義と悪人が決まるのかどうか みたいな話が描かれていることを知りました。

アシュラマンの家族 息子のシバは、サカキバラ事件から着想を得ていると思しく、
あらすじを読むだけで来るものがあるというか、キン肉マンでそれを描くのか!?という嫌悪感があった。

少年漫画家だったゆでたまごにとって、サカキバラ=シバを描くのは、かなりのタブーを、あえて犯す気で描いたはずだと思う。

時間超人 2人組の出自も、少年誌でこういうキャラクターは書かないかもな、という感じがある。

キン肉マンは王位争奪編のラストで、いちど完結した作品である。
なので、初代キン肉マンのアンチテーゼとして、2世を描いた節がある。

ただし、2世の次世代超人たちが、前作を越えることを目標としていたとは思いますが、
そこまで描ききれない とどこかで見切りを付けて、タッグトーナメントの話を切り上げ、
心機一転 初代の続編に原点回帰することになったのではないか と思う。


38巻より再開した、キン肉マンの新作は、楽観的な世界観を、意識して取り戻した節がある。

3つの派閥 それぞれに主張があり、それぞれに正しさがある。

これは、正義と悪が2つに分かれて、悪には救いが無い と言わんばかりの、
2世で描いたテーマとストーリー、その反省から成り立つものだろう。


キン肉マン2世のあらすじをたどりつつ、キン肉マン→2世→現行作の、内的な必然性、作品のテーマやストーリーの繋がりというものを考えていました。

キン肉マン 新作が、いわゆる大人向けのキン肉マンとなっているのは、
やっぱり、ゆでたまご先生が年を経て、20代の若者から大人になって、いろんなことを経験して、その深みが作品に投影されているからだと思います。

2世のシリーズも、10年以上に渡って長期連載されたもので、
読んでみると、ゆでたまごの年令的な成熟、老い、反骨心みたいなものが反映されて面白いんじゃないかな? という気もするんですが、
今 2世の全巻を読むまでのヒマが持てそうにないのと、いわゆる青年誌向けのエログロ路線はあまりスキでなく、何となく手が伸びないというところです。


正→反→合。
無邪気で朗らかな少年 → 世間の厳しさに直面する → 大人になる というリンクになぞらえてみると、
キン肉マン2世のテイストは、(ゆで卵だけに)ハードボイルドすぎたのかも というのが、あらすじを見た時点の印象です。

自分の場合は、小学生前後の小さなときにキン肉マンを読んでいたので、
この作品の世界観や絵のタッチは、小さな子どもの朗らかさ、前向きな明るさを持っていてほしい という価値観がある。
悪行超人たちのキャラクター付け、ストーリー展開で訴えたいところは分かるのですが、キン肉マンの絵と話で読みたいのはそこじゃないんだよな…という違和感、ズレを感じる。

かつてジョジョ5部で、フーゴが離脱した後 敵にするかしないかの葛藤が荒木先生にあったという。
最終的には、
「かつて仲間だったフーゴが裏切り者で、敵として出てきたら、読者もイヤな気持ちになるんじゃないか」
少年マンガの読者には、正義や希望を伝えることが大切ではないか」
との判断にて、フーゴヴェネツィアで別れたまま物語からフェードアウトすることになった。

キン肉マン2世に感じるジレンマ、近づきたいような近づきたくないような感じは、これに似たものがあると思う。


 ***


今日 ついさっきのことであるが、キン肉マンのweb連載が更新され、
ジャスティスマンが登場し、サタンに対峙。オメガマンに教えを諭す話」を読むことができた。

ジャスティスマンがオメガマンに述べたセリフで、「罪人の子孫は罪人ではない」。

ここから先は私の予想・憶測ですが、
ジャスティスマンのセリフは、2世で描いた悪行超人の問いを、作者があらたに問い直したものだと思う。

メガマンが出てからの話は、何を描こうとしているのか テーマやストーリーが見切り発車でグラグラ揺れ、固まっていない感が強かったのですが、
アタルがオメガマンに勝ったくらいから急展開で、今後の筋道が見えてきた。

作者はオメガマンに思い入れがあり、けっこう自己投影をしている感じがあり、もう1人のキン肉マンとしてこのシリーズで成長を描いていきたい。
そういうストーリーで、今後の方向性が、嶋田先生たちの中で固まってきたのだと思う。

時間超人 2人組が報われない悪役のまま死んでいったのも、その時期のゆでたまごであれば、
今描きつつあるオメガマンたちの一団で、時間超人の描き直しをしようとしているのではないか。
そんな気がする。


キン肉マンの展開で、今後 どうやって物語を見せていくのだろう? と思うのは、
「神」よりも「悪魔」は弱いに決まっているだろう ということがある。

キン肉マンは王位争奪編でいちど完結している。
物語の最後で「王」=神に認められた存在となり、ヒーローを極めた。

本来ならば、その先は無かったはず。

このあたりは、ドラゴンボール 神と神以降の展開に似ている。
映画上映前後 鳥山先生にて、悟空たちが成長して強くなりすぎてしまったので、
あたらしい敵(≒主人公のライバル、目標値)としてネコの神さまを設定した という旨を述べていた。


(ゆで先生にとっては、全くのお節介だが)キン肉マンの新作で悩ましいのは、
先に、神であるザ・マン、神の弟子である完璧超人始祖のエピソードを、かなり見事に、二度と描けないくらいの高みで描いてしまったことだと思う。

神のあとに、神に劣る悪魔を出しても、物語は二番煎じとなり、同じことの繰り返しで、前作を超える盛り上がりが得られる筈が無い。

キン肉マンの後にゆうれい小僧がやってきた、キックボクサーマモルでプロレス的展開をやって、人気が出なかった。
聖闘士聖矢のあとのサイレントナイト翔、北斗の拳のあとのサイバーブルー。

原哲夫先生が、サイバーブルーのあとに花の慶次で息を吹き返したように、
ジョジョが1~3部でDIOとの宿命を描き切った後に、4部で仙台の日常話に軸足を移したように。

キン肉マンで、始祖編のあとに、異なるあたらしいシリーズを描くのであれば、
なにか物語の軸足、座標軸や向かうところを他にズラす必要があるのではないか というのが、私自身 僭越ながら思う次第である。


キン肉マン なぜ新作を描くのか?」の答は、作者自身でないとわからない。

このあたりの問いは、人間はなぜ生きるのか? ひとつの目標を達した人間は何に向かって生きるのか? 余生が訪れたら人間は何をするのか? みたいな問いである。

ゆで先生が新作を描きたければ描く。
読者はそれを読みたかったら読む。
何を受け取るかは読者しだい というところだろう。

「強さとは何か」 ブルースリーの燃えよドラゴンを観る

お正月休みに、映画「燃えよドラゴン」をはじめて観て、あわせて、手元にあった手塚治虫「マンガの描き方」を読み返し、ゆでたまご「生たまご」を読んだ。

 

東洋と西洋の違い、肉体と精神の調和みたいなテーマを求めて、アマゾンプライムではじめてレンタルした映画が「燃えよドラゴン」。これがドンピシャに面白く、今更ながら観て、見終わった後も興奮して、身体の震えが止まらないほどだった。

 

私は映画をほとんど見ない人間で、ダーティーハリーも数年前にようやくはじめて観たし、燃えよドラゴンも先日にはじめて観た。

子どものとき読んだドクタースランプには、イーストウッドを模した散髪屋さん、ブルースリーやジャッキーチェンから着想を得たカンフーヒーローが登場していたのだが、最近になってようやく、元ネタとなる映画を観た訳である。

 

ブルースリー燃えよドラゴンは、「強さとは何か」を追求し、表現した映画である。

北斗の拳ドラゴンボールキン肉マン 1980年代に少年ジャンプで描かれた少年マンガは、明らかに、ブルースリー燃えよドラゴンを源流として、作者ごとのそれぞれの物語、男のカッコ良さを描いてきたことに今更ながら気づいた。

 

鳥山先生が描く孫悟空のキャラクター、ひょうひょうとして自由なところ、浮世離れて達観したところは、ブルースリーが持つ二面性、武闘家と哲学者のあたりからもインスパイアされていたのだ と知った。

ブルースリーが早くに亡くなり、燃えよドラゴンで描かれた理想的人物像を継承発展させたのがドラゴンボールの悟空だと言ったら、ひいきの引き倒しになるだろうが、そんな感じもする。

 

荒木飛呂彦のマンガに、直接、ブルースリー的なカッコ良さを感じさせる節はあまり無い。

ジョジョ荒木飛呂彦のマンガは西洋的なムードが強く、シャーロックホームズ、ヒッチコック、近年のモダンホラー映画・サスペンス映画から範を取ったものが多い。承太郎のイメージソースであるイーストウッドも、ハリウッド映画の人脈にある人である。

ジョジョで、いわゆる東洋思想的なエッセンスが入り込んだのは第6部、ジョリーンが陰陽道のバックルを身に付けて脱獄し、キリスト教原理主義の神父を打倒しつつ、世界が一巡し、第7部であらたな輪廻に入ったあたりである。

7部の中で、イエスさまが「ものごとは円」と述べたくだりがあるが、このあたりも、西洋から見た東洋思想を、もう一回 東洋人である荒木先生が取り込んで、自らのエピソードとして描き出したような、そんな面白さがある。

 

ーー描きながら気づいたが、ジョジョシリーズの主人公は武器を使わず、己の肉体で戦う。

ジョナサンはツェペリから教えを受けた波紋法で戦い、波紋が変形・拡張発展したアイデアがスタンド(幽波紋)だった。

呼吸をベースに腹で気を練る波紋法は、明らかに東洋武術であり、キャラクターたちが己の肉体と精神を駆使して戦う様は、武闘家のそれにならっているともいえる。

 

キン肉マンで、キャラクターたちがプロレスリングで全ての決着をつけるのはヘン みたいな突っ込みがある。

同じく、ジョジョスタンド使いたちが、基本 一対一で戦い、刺客たちが一斉に襲い掛かってこないのはヘンだという突っ込みがある。

いくつか理由はつけられるのだが、根本的には、荒木先生もゆでたまごも、男と男の戦いは一対一であるべきもの、強さとは何かを求めるときに、他人の余計なジャマ立ては要らない。

そう考えるからこそ、承太郎対DIOは一対一の戦いとなったし、ゴールドマンとザマンの戦いも余人が入るスキは無い。ジャマする者は殺されるしかない という緊迫感が周囲を圧倒したのだと思う。

 

冒頭に挙げた、年末年始に読んだ本や映画の感想を語りだせばキリが無く、ひとつひとつを詳細に述べることはとてもできない。

最後にひとつ、手塚治虫「マンガの描き方」を読むと、驚くほど、荒木飛呂彦「漫画術」の記載と一致する。

荒木先生が前掲書を読みこんだかどうかは分からないが、手塚治虫、手塚マンガとその構造や背景を知らないということはありえず、何かしらのかたちで影響を受け、学んで、自らのマンガに活かしたことは間違いない。

 

ジョジョのルーツを探る というカテゴリーで、いくつかの映画や本などを紹介してきているが、

手塚治虫「マンガの描き方」、ブルースリー燃えよドラゴン」 

これらが、荒木飛呂彦ジョジョ、1980年代ジャンプの少年マンガに多大な影響を与えていることは疑いない。

ジョジョシリーズや荒木マンガが好きで、これらに触れたことが無い方があれば、いちど手にとってご覧いただければ面白いのではないか と思う。

2019年の振り返り

2019年の暮れが押し迫って、今年のマンガ読書を振り返ると、ジョジョリオンはあまり面白くなかった。院長先生とのチェイスが延々と続いていた感じだった。

キン肉マン オメガ編の連載も読んでいるが、最近に読んだ1巻~60巻のインパクトが強い。

手塚治虫 火の鳥も、黎明編から太陽編までを読み返して、あらためて面白さに感動した。

 

マンガを読んでいて良かったな と思うのは、人生で何かしら大きな決断をしたり、何か困ったことが起きたとき、判断や意思決定をするときに、マンガのイメージやシーンが浮かぶことがある。

意識してマンガを思い出す、というのではなくて、何とはなしに頭に思い浮かんで、判断や決断を助けることがある。

マンガに限らず、文字の本もそうだし、誰かと話したこと、自分自身で体験したことなどが総合して、自分の中の「判断基準」を形作ってるのだと思うが、マンガは絵とストーリーが付いているので、頭に浮かびやすいのかもしれない。

 

今日 仕事と生活において、不正を隠すか隠さないか、正しくないことを見過ごすか見過ごさないか みたいな判断を迫られることがあった。

自分の中で違和感・嫌悪感が湧き上がって、ジャイロが馬上のルーシーに説教しているシーン、ジャスティスマンが「ギルティーッ!」と叫んで相手をマットに叩き落としている場面が浮かんで、正しくないことはやっぱり止めよう と思い到ったのだった。

 

今日はクリスマスイブで、クリスマスは本当はイエスキリストが産まれた日では無い とかいろいろ曰くがあるらしいのだが、

北半球においては、冬至を過ぎて、冬から春に向かい始める日頃であることは間違い無い。

あぶさん 南海からダイエーに身売りしたくらいの時期、カコが主役のエピソードで、

長年の片思いが終焉にいたり、ひとり涙をこぼした後、「冬来たりなば春遠からじ」とつぶやく話がある。(カコのセリフ、本当は口語調のやわらかい言い回しだったのですが、思い出せずすみません)

 

今年1年を振り返って、色々なことがあったなあ という気がするが、冬来たりなば春遠からじ というのが、今の心境である。

ブログ読者の皆様にとって、来年一年がよい年になりますように。