ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

「貧弱!」「貧弱ゥ!」 ディオの叫びと「学問のすすめ」

ジョナサン・ジョースターは1868年、明治元年の生まれである。

荒木飛呂彦の漫画術」p92によれば、ジョナサンとディオの1部は1888年、ジョセフの2部が1938年、そして第3部が1988年の話と、50年刻みで100年の時を駆ける3部作が描かれているとのこと。

 

最近、自分自身の足元の振り返りを兼ねて、福沢諭吉の「福翁自伝」、「学問のすすめ」を読み返している。

学問のすすめ」は全17編から成り、青空文庫というwebサイトで無料で読むことができます。けっこう過激な物言いもあって面白く、よかったら初編だけでも読んでみてください。(下記 リンクを張っています)

 

第3篇を読んでいたところ、ジョジョの1部を連想させるくだりがあり、面白かったので下記のとおり 引用いたします。

「貧弱!」「貧弱ゥ!」というディオの叫び声は、荒唐無稽なばかりではなく、19世紀末の近代における帝国主義の争い、「人類を超越し、支配しようとした」DIOの在り様を端的に象徴していたのかもしれない……そんなイメージを重ね合わせています。

 

 

福沢諭吉 学問のすすめ

 

(第三篇)


 およそ人とさえ名あれば、富めるも貧しきも、強きも弱きも、人民も政府も、その権義において異なるなしとのことは、第二編に記せり〔二編にある権理通義の四字を略して、ここにはただ権義と記したり。いずれも英語のライト、right という字に当たる〕。今この義をおしひろめて国と国との間柄を論ぜん。国とは人の集まりたるものにて、日本国は日本人の集まりたるものなり、英国は英国人の集まりたるものなり。日本人も英国人も等しく天地の間の人なれば、互いにその権義を妨ぐるの理なし。一人が一人に向かいて害を加うるの理なくば、二人が二人に向かいて害を加うるの理もなかるべし。百万人も千万人も同様のわけにて、物事の道理は人数の多少によりて変ずべからず。今、世界中を見渡すに、文明開化とて文学も武備も盛んにして富強なる国あり、あるいは蛮野未開とて文武ともに不行届きにして貧弱なる国あり。一般にヨーロッパ・アメリカの諸国は富んで強く、アジヤ・アフリカの諸国は貧にして弱し。されどもこの貧富・強弱は国の有様なれば、もとより同じかるべからず。しかるにいま、自国の富強なる勢いをもって貧弱なる国へ無理を加えんとするは、いわゆる力士が腕の力をもって病人の腕を握り折るに異ならず、国の権義において許すべからざることなり。


 近くはわが日本国にても、今日の有様にては西洋諸国の富強に及ばざるところあれども、一国の権義においては厘毛の軽重あることなし。道理にもとりて曲をこうむるの日に至りては、世界中を敵にするも恐るるに足らず。初編第六葉にも言えるごとく、「日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落とさず」とはこの場合なり。しかのみならず、貧富・強弱の有様は天然の約束にあらず、人の勉と不勉とによりて移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべし。古今その例少なからず。わが日本国人も今より学問に志し気力をたしかにして、まず一身の独立をはかり、したがって一国の富強を致すことあらば、なんぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこのことなり。

ジョジョリオン 2017年11月号の感想、今後の先読み

ウルトラジャンプ 2017年11月号、ジョジョリオンの最新話を読んだ。
岩人間・岩ペットとの決着、プアートムが出てきたところまでの話で、今後の伏線がいろいろと張られた話だった。

ドロミテ、アーバンゲリラとソラティド、プアートムと明らかに「異形」のキャラクターが続々と現れていて、
物語のテンション的に、(作者の表現意欲も)高まってきている感じがする。際どいところ、嫌な感じをうまく織り込んであると思う。

アーバンゲリラのセリフで、「半分 吉良吉影、半分 東方定助…」というセリフがあって、
(メタ的に見ると)主人公の定助はベースが定助(≒ジョセフミ)で、そこに吉良の過去が重なっている、というイメージなんだろう。
これからの展開で、吉良家の謎、「医者」としての仕事と「長生きすること」「病を治すこと」の根幹が問われる展開になりそうで、楽しみである。


もう1つ、いかにもクライマックスに向けて仕込まれてきた伏線として、豆銑さんが「シャボン玉の正体、能力の本質はひも」と気づいた場面があった。

ラストのクライマックス、岩人間の最後の一人(プアートムの後にもう1人出る、強そうな奴?)、常敏や憲助らとの争いで、
主人公のスタンドが何かとんでもない、素粒子物理学のエッセンスを詰め込んだ、チートな能力が覚醒する前振りなのだろうか。

ジョジョのラストバトルは、たぶん「究極の戦い」を意図して描かれてきた節があって、2部のラストで究極の生物が覚醒する展開に始まり。
3部~6部で時を操るスタンドが最後に登場するのは、「物理的な現実世界で、時間を操る者が一番スゴイ」と考えたからだろう。
7部以降のシリーズでは、次元の狭間、黄金比の無限の回転が現れたりと、アイデアを変えたところで、究極の能力を描こうとしているのだと思う。


8部の展開で、一つ残念なのは、カレラと常秀、虹村さん辺りに活躍の機会が無さそうなところだろうか。
虹村さんはホリーさんの復活を受け止める役、常秀やダイヤは東方家の融和を見届ける役割が残されていそうだが、カレラはもう登場の機会が無いかもしれない。

ジョジョリオンの展開は、「カレラが持っていた1枚の写真」がキーになって、一気に面白くなってきたと思うので、
このあたりの伏線・キャラクターが蔑ろになってしまうのは、何となく残念だ。
次のプアートムの話では、(ウルトラジャンプの巻末予告によれば)康穂が中心になって活躍するらしいので、ここで、康穂とカレラが絡んでくるのかもしれない。
プアートムもそうだが、下品でヤンキーなキャラが面白いので、カレラや常秀にもう一花、出番があると嬉しい。

ジョジョ展を観て、泉パークタウンを訪ねた旅の顛末

1991年頃、宅八郎が「さんまのまんま」に出演したときに、「承太郎がポケットに手を入れてたたずむ、キャッチフレーズグランプリのTシャツ」を着ていた。
ジョジョ24巻の表紙になっている、承太郎の背後にドジャーーンとかハートマークとか、いろんなアイコンが描きこまれたポップな一枚です)
ジョジョグッズ」を身に着けた人間を視たのはこのときが初めてで、
宅八郎=キモイオタク=ジョジョという図式が頭の中で繋がった自分は、「ジョジョはやっぱり、気持ち悪いオタクが読むマイナーなマンガで、この趣味はこっそり胸の中にしまっておこう」と思った。

ーーそれから30年近くが過ぎて、家族の薦めがあり、仙台市で開催のジョジョ展を初めて観に行くことになった。
(早朝に関西を出発し、仙台・東京の一泊二日の旅をした)

ジョジョシリーズの原画、カラーイラストやモノクロ原稿を観たのは初めてで、眼福としか言いようのない、貴重な体験をさせて頂いた。
JR仙台駅に到着し、地下鉄に乗った辺りから、ジョジョのグッズやアパレルを着こんだカップル・若者が多く乗り込んできて、駅構内のそこかしこに原画展のポスターも貼られていた。
ジョジョが気持ち悪いマンガで、地下室のオタクのみが好むようなマイナーな存在であったのは過去のことで、すっかり陽の目を見るようになったことを感じて、くすぐったいような不思議な気持ちがした。

ジョジョの原画展はとても興味深く、一言でいえない感想があったが、(画を観た感想を言葉で述べるのは難しく、)このブログが適当だとは思えない。
あえて言えば、かつて宅八郎が着ていた「承太郎のTシャツ」、「赤系の衣装でまとめたDIOのTシャツ」なんかが売っていたら欲しかったが、あいにくそうしたグッズは売っていなかった。
4部・8部のモノクロ原稿は印刷物で見る以上の迫力・奥行きがあり、原画に込められた内容や情感が、印刷技術を介し、薄く広く拡散していることが分かった。
ビタミンCのホログラムビジョンが手元に映りこむのが面白かったこと、
展示会の最後が「岸部露伴が、読んでもらうためにマンガを描いていると宣言する」生原稿で終わったことに、小粋さを感じたことであろうか。


ーーこのブログでは、ジョジョ展そのものの感想・内容に触れることは上記のとおりとして、
4部/8部 杜王町のモデルになったという仙台市の実際の街並み、荒木先生が育った故郷を巡って歩いた概要を記します。

 

  ***


ジョジョ展の展示会場を出て、地下鉄とバスを乗り継ぎ、泉パークタウンへ向かった。

「泉パークタウン(仙台ロイヤルパークホテル、紫山のあたり)が杜王町のモデルらしい」とのネットの情報を得て、
ものは試しと、荒木先生の生まれ故郷である仙台の街を、散策してみることにしたのであった。

旅行から帰ってきて手元の資料・冊子を調べ直したところ、荒木先生はたびたび、仙台郊外の都市開発と、杜王町が生まれたきっかけについて語っている。
jojo-a-gogo! 付属冊子のインタビュー、コミックス35巻・62巻のはしがき。ジョジョベラーのインタビュー。
そして、仙台市が企画した「広瀬川インタビュー」にて、同氏自身が、小さい頃に遊んだ思い出の場所、泉パークタウンや鶴ケ谷ニュータウンの開発から杜王町の構想が触発されたことを詳細に語り下ろしている。

仙台市営地下鉄乙女駅に向かう辺り、地下から地上に電車が抜け出てきた辺りで、線路沿い 高台の住宅を見て「あっ!」と思った。
かつて私自身が育った関西郊外の住宅地、田舎の野山を切り開いて造成したような、そんな住宅地にそっくりだったからである。

泉中央駅からバスに乗り込み、泉パークタウンの敷地に入った。
泉パークタウンは、関西でいうと洛西ニュータウンや神戸市北区のニュータウンのような、山を削って、丸ごと新しい一つの街をつくった住宅地であった。

バスを降りてしばらく歩き、図書館を抜け白百合学園を越えて、紫山の住宅地に入った。
残暑厳しい晴れの日で、カーーッと照り付ける日差しはとても暑く、住宅地の隅々をまぶしく照らしていた。
アンドリュー・ワイエスの風景画のような侘しい一帯があり、殺風景とも言えるが美しいとも言えるような、そんな景色があった。

泉パークタウンという街そのものの良し悪しを、部外者である私が軽々しく語ることはできない。
泉パークタウンという住宅地は、日本に遍在する高級住宅地・郊外を開発してつくられた新たな住宅地だと思う。
街そのものの風景や生活感でいうと、ジョジョ4部の杜王町もさることながら、いがらしみきおのホラーマンガ「Sink」がもっと直接的に、現実に結びつく形でモデルにしている と感じた。


荒木先生のかつてのコメントを紐解くと、jojo-a-gogo!のインタビューでは、けっこう辛辣な、直截なコメントが記されている。
コミックス35巻のはしがきでは「関係者の利益だけを考えて、山を一つ削ってしまう行為。それは犯罪ではないのか?」と、かなり厳しい表現で、自然環境破壊への嘆きが語られている。

杜王町のモデルであるような郊外のイナカの景色。
鉄塔がポツンと立つ山辺の景色や、ネズミが農家に侵入してくるような田園の景色など、(荒木先生が子供の頃は、)そんなイナカの景色が今よりもっと、仙台に沢山残されていたのだろう。

荒木先生の母校である東北学院高校榴ヶ岡校舎から泉ヶ岳方面を臨む山の手の景色。
成育地である若林区の周辺(?) 鶴ケ谷ニュータウンの開発に伴い「子どもの頃遊んだ、裏手の山」が丸ごと一つ無くなったことなど、荒木先生の嘆きは大いに頷けるところがある。

私自身 関西地方の郊外、滋賀県の山の手の住宅地で生まれ育ったのだが、小さな裏山のそばに家があり、自然と共生しているような、そんな親しみを感じていた。
その後引っ越した住宅地は山一つを丸ごと無造作に削ったような愛想の無いニュータウンで、コンクリートむき出しの住宅地には、何となく情緒の荒びを感じたものだった。

しかしながら、よく考えてみると、私が元々生まれ育った山の手の住宅地も、もともと野山・原野であったところを開発し、住宅地として整え両親が購入したものである。
人間が生きて増殖し、地球上に暮らしている以上 必ず自然と「戦い」、自然を「征服」する必要が有る筈で、かつての生家へのノスタルジーは、多分に甘すぎる嫌いがある。


ーー現在 私が思うところとして、泉パークタウンに象徴される住宅開発、「山を削って住宅地を開発すること」を悪であり犯罪であると、単純に否定することはできない。
ただし、私がかつて住んだニュータウンもそうであったし、洛西も神戸も、仙台の泉区も同じかと思うが、新しく作られた街というのはどうしても、まだ「自然に馴染む」ことができていない。

仙台の街を訪れたとき驚いたのが、定禅寺通りケヤキ並木の圧倒的な量感で、街の目抜き通りを歩きながら木漏れ日の中を森林浴しているような、とんでもない自然のボリュームがあった。
仙台の翌日に訪れた東京でも、お茶ノ水~信濃町~四谷、池袋から石神井公園までを電車と徒歩で縦貫していったのだが、
自然と馴染んだ古い建物が美しく、自然と人為の調和した営み、「生活の跡」をそこかしこに見ることがあった。

京都の人は概ね悪口が好きだが、彼らによると、企業や商店を評価するとき、「どれだけ長くやっているか」を重視し、
三代目・四代目と長く続くほど良く、100年単位でお店や企業が存続していないと、あまり重きを置いてもらえない そんな価値観(悪口)があると言う。

ニュータウンと古い街の違いも、まさに同じことで、
仙台市の「花京院」「定禅寺」「勾当台」etcの地名には長い時間を積み重ねたロマンがあるし、ジョジョのキャラクターに通じた重ね合わせもできて、そこはかとない面白味もある。
ニュータウンの歴史が50年~100年と積み重なっていけば、そこに古びができ、長年住み続けてきた人々の足跡が残り、その街独自の「味」が出てくる。
そんなものなのだと思う。


最後に、仙台を旅行してきた結果 勝手ながら荒木先生の胸の内を推測させていただくと、
かつてのニュータウン開発、故郷が取り壊されることへの不安・反骨から、「キレイな反面、不気味さが潜むニュータウン杜王町の構想が生まれ、
また、勿論 それだけではなく、生まれ故郷への愛着を大いに含めて、4部/8部の杜王町が描かれてきたのだと思う。

現実への批判、反骨からあらたな表現が生まれる。

「恐怖」や「不安」をテコに、ホラー映画やサスペンス映画の面白さをマンガで描くアラキマンガの方法論が、杜王町の構想に大いに活かされたのだと思う。

いがらしみきおのSinkと、ジョジョ杜王町は、同じ仙台をモデルにしていても、作品の読み味・印象は随分異なる。
当たり前だが、それぞれの作家が持つ個人的資質、作品で訴えたい感情・内容の選択によって、街の描く表情(=作品への切り取られ方)は、それぞれ異なってくるものなのだろうと思う。

しかしながら自分は、泉パークタウンの瀟洒なホテルやショッピングモールの賑わいよりも、
石神井公園の「ほかり食堂」 650円の日替わり定食と、シワシワに読みこまれたスポーツ新聞の斜め読みに、より多く満足した人間であった。
阪神ファンでもないのに)鳥谷敬の2000本安打にちょっと嬉しくなり、鳥谷ら野球部OBが(若くして亡くなった)級友の同窓会を元日に開き続けていることなど、シンミリ 良い話だと思って読んでいた。

荒木先生の広瀬川インタビューで、ルーブル美術館に象徴されるアートシーンと、電車の中で急いで続きを読む連載マンガの味わい、マンガの「2つの側面」について触れられていた。

自分はジョジョ展で、カラーイラストの美しさ・迫力に感心したこともさることながら、重ちーが爆死したシーンの描画の迫力、吉良と仗助が会合したシーンの見開きの描画など、モノクロ原稿の迫力と工程の履歴に、より心を奪われていた。
ほかり食堂のような昭和の古き良き食堂に、週刊ジャンプが並び、ドラゴンボールキン肉マンジョジョの連載が読まれていた時代もあった。
吉田義男鳥谷敬の2000本安打を祝福しつつも、「守備だけなら私のほうが上手かったですが、走攻守の総合力では、鳥谷君が阪神No.1のショートかもしれませんな」と良く分からない祝辞を述べていた。
プロ野球の記録が100年近くに渡って刻まれてきたのと時を同じくして、少年ジャンプの連載の歴史も、石神井公園や仙台の街並みも、私の人生も少しずつ年を重ねてきていると思う。
「時間の地層」がしみじみと積み重なっていくのは、良いものだと思った。

ジョジョ6部→7部・8部へと通底するテーマ 「自然に帰れ」と2011年問題

ジョジョシリーズを続けて読んできた方であれば、6部ラストの大きな「断絶」、7部以降への「転回」について、ひとこと語らずにはいられないものだと思う。
6部のラストが謎めいた解釈を残していることもあるし、
キャラクターや舞台設定に没入するタイプの読者であれば、全てのキャラクターを放り投げて捨てた(ようにも見える)ラストが不評なのも分からないでは無い。

6部ラストの解釈については、当ブログ「ストーンオーシャンを巡る連想、あれこれ」で書いたので、ここでは触れない。

6部から7部・8部へと続くテーマ、ジョジョリオンで描かれつつある「2011年問題」について、この記事で書いていきます。


 ***


ジョジョ6部→7部への切り替わりを読むにあたり、原典たるコミックスを読むことはもちろん、
作者の意図・背景を知る資料として、ジョジョベラーのインタビュー本、7部連載開始当時の青マルジャンプのインタビューなどがある。

(てもとに原典が無いためうろ覚えの部分があり恐縮ですが、)これらの原典・資料を読んだ上で、私自身の解釈と意見を述べていきます。


ジョジョ6部→7部・8部へと続くテーマは、「自然に帰れ」である。

1部当時から描かれてきた「人間賛歌」、世代を越えた正義と悪の戦いの物語は6部で幕を降ろし、
勧善懲悪の戦いの物語から、人間と社会の未来のありよう、人為と自然の調和のありようを問う物語に、テーマの主軸が移ってきた。
ちょっと強引な決めつけかもしれないが、6部→7部・8部の展開で、そんな感じの感想を持っている。

少年ジャンプ時代のシンプルな勧善懲悪を脱し、青年誌向け・中年~初老の作者が描く「複雑でビターな勧善懲悪」、
そして「自然に帰れ」に象徴される社会批評が隠されたテーマとして描かれてきた。
そんな感じが、ウルトラジャンプ以降で描かれてきた、ここ10年ほどのジョジョだったと思う。


「自然に帰れ」は、ルソーが言ったと伝えられる言葉である。

6部の物語に見られる観念性、文明が進み(連載当時の2000年より11年先の)2011年 「未来の果て」の物語。
複雑になりすぎた血族と因縁、ネタ切れが近づいてややこしくなりすぎたスタンドバトル、見づらくなった絵柄とアクション。

6部 刑務所からの脱獄と、罪を清める物語は、
20世紀の終わりという時代と、ジョジョワールドの複雑化・長期連載の行き詰まりが招いた、いろんな意味で「世界の終り」を描いたマンガだった。

6部文庫本のあとがきによれば、6部でジョジョは完全に終わってしまう可能性もあったようだが、
作者の一念発起によりラストを変更、「自然に帰り、自然と戦い、道を切り開いていく主人公」の7部 SBRが構想されることになった。

7部の主人公 ジャイロのファッションが象徴的で、19世紀のアウトローでありながら、現代的なパンクの意匠を身にまとわせている。
マンガのコマ割りもシンプルになり、キャラクターの表情・アクションもリアル風に変わって、カッコ良く、美しい絵柄だと思う。

青マルジャンプのインタビューで、作者は、6部は網の目状で複雑になりすぎた、その反省から7部はストレート、真っ直ぐ迫る感じにしている と述べていた。
7部の物語は大統領の登場以降 複線化したが、最後のステージで一本化し、ジャイロとジョニィの物語として一つの船に全てを納めて終わった。
物語の途中で細かいアラは有ったが、一本のストレート、弾丸が転がり走り抜けた、そんな物語だったと思う。


7部 SBRのバトルで、サンドマンとの戦い、大統領との戦いなどで「黄金長方形の軌跡」、「無限の回転の秘密」が語られる。
黄金長方形の秘密とは、せんじ詰めれば、「自然に帰れ」、「自然に立ち帰り、自然と戦う中から我が物を得よ」ということである。

サンドマンとの戦いでジョニィが回転の秘密を会得し、(トラウマの象徴たる)ダニーの苦しみを克服するシーンがある。
このシーンは、美術のデッサンを学んでいたり、心理学の素養がある程度無いと分かりにくいかもしれないシーンだが、
自然を書き写し、自然や世界の美しさに驚いた経験や、心の苦しみを洗い出し融和・和解した経験のある方であれば、とてもドラマチックで、洗練された感動を味わえる名場面だったと思う。
(このブログの記述みたいに、いちいち言葉で解説するのは上手くなく、シーンの繋がりだけを見て、サラッとダイレクトに意趣を伝えるマンガのほうがオシャレであるが…)

ジャイロとジョニィが馬に乗りながら、黄金長方形の回転を会得する一連のシーン。
コミック10巻の巻末付録で、素粒子物理学の引用からスタンドを解説する学術的マンガ(?)など、節目節目で、自然と戦い、自然と融和する主人公たちの有り姿を見ていただけると思う。


8部 ジョジョリオンでも、「自然に帰れ」に象徴されるテーマの現れ、物語の展開が現れてきている。

植物鑑定人 豆銑礼の、人為と自然、職住一体の暮らし振り。
岩人間と岩動物(ペット?)の奇妙なコンビや、カエルやフライドチキンを食べながら池で暮らすドロミテ。

豆銑礼によれば、鉱物と生物が融和した岩人間の体質は、クリオコナイトのコロニーに見られるような、生物進化の起源を示すものかもしれない という。

東方家が襲われてきた「呪いの病(=石化病)」と、岩人間の岩体質は、ルーツでどこか、繋がる点があるのかもしれない。

「呪い」とは即ち、文明病の克服ではないか?
生命の根本(=自然)に立ち帰り、人間の営みを見つめ直すことを訴えているのか。
人間と自然の調和。社会のありかた、人生観のありようを問うているのではないか。

ーーそんなことを、(連載中の現時点での)感想・予想で思っています。

 

最後に、ジョジョの2011年問題とは、偶然の符号の一致かもしれませんが、

「6部と8部で、物語の舞台設定が同じ2011年であり、(現時点で)これ以上の未来の世界は、物語中で描かれていない」ということです。


ジョジョ6部 グリーンドルフィンストリート刑務所の物語が、2011年を舞台設定に描かれたものでした。
19世紀末に時間軸を戻したSBRが描かれて、その後、(連載開始当時の「現代」だった)2011年を舞台に、ジョジョリオンがスタート。

2011年 ジョジョリオンの連載開始直前に東日本大震災が起き、震災が起こった後の仙台を舞台として、ジョジョリオンは始まっています。
連載開始から6年ほどが経ち、現実世界の動きとリンクするように、ジョジョリオンの物語も少しずつ、ゆっくり前に進んできたように思います。

「2011年」という年は、今を生きる日本人にとって、大きな節目、生活や物事を考える分岐点の一つになっていると思います。
これから先を生きる未来の指針を探るため、社会の在りよう・幸せの在りようを探るシミュレーションの一つとして、ジョジョリオンの物語が描かれている節もあろうかと思います。


例えば「美味しんぼ」と違って、ジョジョで、政治/経済/社会の直接的な批判が語られることはありません。
「人間賛歌」というテーマも、シーザーの死の場面が最も顕著に、言葉で語っていたくらいで、あまり表に出して、説教臭く語る場面はなかったかと思います。

ロカカカの実を巡る争いに、キリスト教の神話からの重ね合わせ、現代日本への批判も込められているのでしょうが、
あくまでエンターテインメントとして、サスペンス/アクション/ホラーを表に出した、読んで楽しめるマンガとして表現されていると思います。

作者の意図として、テーマが表だって説教臭くなることは注意深く避けられていると思いますので、
当記事の趣旨は、あまりオシャレとは言えないものかもしれません、すみません。


ただし、ここ最近の7部・8部以降のジョジョは、バトルやアクションの痛快さ、駆け引きの巧みさもさることながら、
ストーリーやキャラクターのうねるような大きな「流れ」を捉えたり、
大所高所からの俯瞰的人生観を哲学的エッセイとして読んで、けっこう面白い感じがある。

メレンゲの造りかたみたいな俗な知識と、1万年前の農業の起源から始まる社会論・文明論のコントラストが面白い。

作者が年齢を重ねるのと同時に、読者の私(=41歳、天才バカボンのパパと同い年)も年を取りつつあるので、
ややもすると、そういう年よりじみた読み方になるのかもしれない。

ジョジョのイメージが目に浮かぶ洋楽 (作成中)

素人の覚書で恐縮ですが、ジョジョのマンガのイメージと、音楽(洋楽)のイメージが結びつくことがあります。
作成中のメモ書きです。


●カーティスメイフィールドの「スーパーフライ

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アルバムタイトル曲のスーパーフライを聴くと、ジョジョの表紙絵、カラーイラストのあの感じが目に浮かぶ。
定助が身をひねってジャンプしている、一枚の表紙なんかが思い浮かぶ。

8部の杜王町では、街が水平に放射状に拡がるというよりは、
「上下関係」の移動、壁の目の隆起であったり、(常敏と花都による)上昇/下降の人生論が現れている。

「スーパーフライ」というアルバムは、8部世界の、上下関係の人生論を象徴的に現したアルバムでもある。

(4部の鉄塔男のスタンド「スーパーフライ」は、このアルバムから名前を貰っている訳ですが、
 ひきこもり男が優雅に暮らす鉄塔と、同アルバムのサウンドがどう重なるのか、個人的には全く接点が思い浮かばない。
 ダジャレで名前が繋がっているという訳でもないし、荒木先生は、不思議な発想をする人だと思う)


●スライ&ザ・ファミリー・ストーンのアルバム「スタンド!

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恥ずかしながら自分はスライストーンの「アンソロジー」というベストアルバムを持っているのみで、同ベストNo.5~10の6曲で「スタンド!」を聴いたのですが、いずれも素晴らしい楽曲揃いである。

どう素晴らしいかというと、論を待たず実物に当たっていただくのが適格であるが、
明るく華やかで、ノリが良く、皆 仲の良さそうな感じがとても楽しい。

 

独立独歩・前向きで明るく、ひとりひとりが群れずに戦う感じが、ジョジョのイメージに重なる。


福沢諭吉が「学問のすすめ」等で説いた近代の理想が、1960年代のアメリカの若者によって歌われているのが面白い。
また、私個人の成育履歴を振り返ると、小学校や家庭での音楽・道徳の授業など、
「幼い頃にしつけられた理想的世界」と重なって、聴いてて何だか落ち着くのだろう。

また、スライストーンのダンストゥザミュージックを聴くと、jojo-a- gogo! 巻頭の、ダンス絵巻が目に浮かぶことが時々ある。


●プリンスの「1999

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私個人の偏見かもしれないが、
プリンスの1999という曲は、4部の杜王町を描くときのイメージソースの一つになったのではないか と思う。

作者の言質を取ったわけでもないのだが、プリンスの1999を聴くと、何となくそんな感じがする。
曲の最後に爆弾の話が出てくるのも、(こじつけっぽいが)キラークイーンの吉良を連想させて面白い。


ーー本当のところは、ジョジョ4部の連載が始まった当時 私自身が、

ジョジョに出てくるキーワードを追いかけて、1999やキラークイーンを聴き始めた覚えがあるので、私の中でイメージが強く結び付いているためかもしれない。

 

 

●おまけ

2016年 集英社の「学習まんが 日本の歴史」シリーズがリニューアルされ、荒木先生が聖徳太子マッカーサーの表紙を描いたそうである。

BinB reader

聖徳太子のイラストが、どう見てもプリンスにしか見えないのはご愛嬌だろうか。

上記の表紙イラストは、(シリーズ本の発刊時期から逆算して)2016年春~初夏くらいに描かれたかもしれないので、ちょうどプリンスの死去が報じられた前後 プリンスへの追悼の意を込めて、こんなイラストが描かれたのかもしれない。

私の好きな作家たち

ジョジョとはあまり、直接的に繋がらない話題ですみません。
自分自身の趣味嗜好を整理するためのメモ書きです)


私の好きな作家たち ということで、
マンガ家ではジョジョの荒木先生、鳥山明先生、水島新司、望月ミネタロウ、手塚治虫

文章を書く作家さんでは、橋本治福沢諭吉夏目漱石芥川龍之介

映像作家では、円谷プロの(昭和時代の)特撮シリーズ、洋泉社の特撮ムックも楽しい。


最近に知ったところで、橋本治の生まれ育った東京山の手(杉並区、世田谷区)は、
東宝円谷プロの映画スタジオ(世田谷区)と、同じロケーションに在った。

ウルトラ怪獣のスチール写真で、トタン板を背景に撮影されたもの、近所の山畑を背景に撮影されたものがある。

田舎じみた景色を背に怪獣やウルトラマンが立っている写真は、なんだか無性に懐かしく、
それは、(1970~80年代に)私自身が生まれ育った田舎の景色と、なんだか似通っているからだと思う。

 

橋本治の近著「知性の転覆」で、アメリカの田舎を論じる箇所があり、荒木先生のホラー映画論ーー「田舎に行ったら襲われた」ホラー、密室の恐怖と論旨が重なるところがある。 私はアメリカに住んだことは無く、旅行で訪れたことがある限りだが、確かに頷かされる所がある。)



上記に挙げたところ 私自身の中で、何かしら一つに繋がるところがあり、
過去から未来へ、一本の道筋を紡ぎ出しているところがあるように思う。

私自身の「道程」というわけで、
過去を懐かしむノスタルジーではなく、未来を作るための温故知新として、これらの諸作品を活かしていきたい。

「もう中学生」のリアリティ

5月の休日 子供たちの遊びの付き添いで、公園に行くことがあった。
地域のお祭りをやったりしていて、多くの子供たちで賑わっていた。
ボルダリングよろしく5mくらいの石壁を登る子供がいて、滑落しないか、見ていてハラハラした。

小学生から幼稚園くらいの年の子供が公園で遊んでいるのを見るのは微笑ましいが、
子供たちの遊びは必ずしも「平和な楽園」ではなく、緊張関係を孕んでいる。

駆け引き、取り引き、多数決の政治、そしてイジメ。
子供たちは子供たちの社会をつくり、大人の監視が行き届かないところで、日々 さまざまな「戦い」を経験し、摩擦に耐えている。
公園で遊ぶ子供たちを見て、改めて、そんなことを思い返していた。


  ***


ウルトラジャンプの最新号(2017年5月)では、植物鑑定人が現れ、リフトでのアフタヌーンティーを準備し終えたところで終わっている。
植物鑑定人は、ジョジョには珍しいアジア人的な顔立ちで、プロフェッショナル然とした振る舞い、職住一体・自然と人為が調和した暮らし振りが面白い。

康穂にボコボコにされてしまったらしいドロミテも含めて、ユニークな住人が増えてきて、
8部の次元の杜王町に、新たな名所が生まれつつある感じが楽しい。

今月号の一つ前の話で、常敏と花都の過去話が描かれた。
常敏がローラースケートで滑っているくだりは、作者の気合の入った筆が感じられて、
憲助さんの視点からの、花都さんと子供たちを見つめるショットが、一枚の写真のように描かれていた。

中学生男子によるイジメ事件がきっかけで、常敏の運命が大きく転回することになった。
この中学生を、仮に「もう中学生」君と呼ぶことにする。

「もう中学生」君は中々秀逸なキャラクターで、中学生らしい発想や行動のリアリティがよく現れていた。
世界観が狭く、限られた社会の中で全てを充たそうとしたり、発想が短絡的で、すぐ衝動的な暴力に走ってしまう所など。

常敏が呪いの病のため記憶障害になり、皮膚にヒビが入り、見た目にも様々な異常が現れてきていた。
「もう中学生」君は、地元の町工場か市会議員あたりの息子であったが、大金持ちの東方家に嫉妬の気持ちを抱いており、
嫉妬含みの羨望の気持ちが、イジメの遠因にあったのではないかと想像している。

成長した常敏が、「毎日が夏休みだ」と浮かれた、子供っぽい趣味を開陳するようになったのも、
(病気を克服するまでは)マジメで大人しく、弾けていなかった過去からの反動があったのだろう。


荒木先生のホラー映画論 あとがきで、「地震ごっこ」で遊ぶ子供たちについて触れられていた。

子供は、遊びを通して社会に参加し、恐怖と不安を体験し、他人と自分の関わりについて学んでいく。

「もう中学生」のリアリティは、小学生から見た中学生の恐るべき実態、裏の顔の一つである。
自分の子供たちが、いつ、苛烈なイジメに逢うか、どんなひどい目にあう可能性があるかは誰にも分からない。

ただし、自宅に放火されたり、家族のパンティが盗まれたりするような目には中々逢わない筈で、
日々の様子におかしな所はないか? 事件の予兆に、つねに気を付けておこうと思う。