ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

ジョジョの野球チームを、2017年のプロ野球選手に例える

2013年の秋 「理想のベストナイン」という記事で、ジョジョシリーズの主人公たちで野球チームを組んでみたことがあった。
(他愛の無いヒマつぶし。プロ野球がオフシーズンになると、こういう空想遊びで野球的な楽しみを充たしているようです)


1番センター ジョルノ .300 10HR

2番セカンド ジョニィ .272 5HR

3番サード 承太郎 .320 40HR

4番キャッチャー 仗助 .280 28HR

5番ファースト ジョナサン .260 42HR

6番レフト ポルナレフ .275 12HR

7番ショート シーザー .250 4HR

8番ライト ジョリーン .242 2HR

9番DH エンポリオ .234 0HR

 

投手 ジャイロ

投手 ジョセフ

 

控え イギー、早人、ルーシー、億泰

 

そして今、2017年シーズンのプロ野球選手(実在の選手)を、上記の野球チームに当てはめてみることを考えました。

だからどうだと言うことは全く無いのですが、野球チームの実在像の、リアリティを高める気がしないでもありません。

また、4番キャッチャーに当てはまる野球選手が現役で見当たらないため、一人だけ、OB選手を採用しています。ご容赦ください。

 

 

1番センター ジョルノ = 桑原(横浜)

2番セカンド ジョニィ = 銀次(楽天

3番サード 承太郎 = 中村(西武)

4番キャッチャー 仗助 = 城島(漁師から現役復帰)

5番ファースト ジョナサン = マレーロ(オリックス

6番レフト ポルナレフ = 吉田正尚オリックス

7番ショート シーザー = 大和(阪神→横浜)

8番ライト ジョリーン = 松本剛日本ハム


先発投手 ジャイロ = 則本(楽天

先発投手 ジョセフ = 山岡(オリックス

 抑え投手 定助 = 糸井(日本ハム時代の二刀流)

 

  以 上

ウルトラジャンプ2018年1月号を読んだ、大まかな感想

ウルトラジャンプ 2018年1月号が発売され、買って読んだ。

東方家の敷地で、最後の戦いのエピソードが始まった感じで、ロカカカ収穫までの時間表示が、いかにもアラキマンガっぽい、理詰めの盛り上げ方な感じがする。(植物鑑定人のリフトで、ポールの番号順にストーリーが進むのも、同じ感じだった)

今月号のエピソードは、SBRでウェカピポとマジェントが戦い始めたとき、ジョニィが謎の男に銃撃されたときくらいに似ている感じがして、だとすればあと2~3年、2020年になるくらいまで、ジョジョリオンの連載が続くんだろうか?

もうちょっとコンパクトにまとまるかもしれないけど、敵としての岩人間は、プアートムともう一人、吉良家と因縁のあるキャラが最後に出て、そいつと東方家と定助が三つ巴で最後に争うんじゃないか? と予想をしている。 でも、そんな展開にたどり着くまで、あと1年近くかかるかもしれない。

 

ウルトラジャンプと一緒に発売された、ジョジョリオン17巻 巻頭のはしがき(作者のエッセイ)。ホラー映画と人間文化の発達(?)を絡めた分かるようで分かりづらい内容で、荒木先生自身の「ホラー映画を観続けてマンガを描いてきたこと、ホラー映画を座右の銘としてきた人生」の理論武装なんだろうと思う。

2018年の夏 東京でジョジョの原画展があらたに開催されるそうで、新作原画が描き下ろされるらしい。ジョジョリオンが完結するくらいに、この原画展の描き下ろしを含めたイラストブックが発売される気がする。

 

--しかしながら、ジョジョの1~4部くらいをジャンプで読んでいたときに、30年後 ジョジョがここまで生き残って、原画展をやったりイラストブックが続々発売される事態になっているとは想像もつかなかった。20~30年後の未来は「読めない」わけで、よくも悪くも、未来は拡がりのあるものだと感じる。

怪獣図解入門とドラえもん、ジョジョ 「データベース」の子ども文化

切通理作氏の著書で「怪獣少年の復讐」という本があり、ときどき読み返している。
特撮関係者へのインタビューを一冊の本にまとめたもので、第2期ウルトラシリーズ、1970年代の特撮・子ども文化に興味ある方には、なかなか面白い本である。

同書の4章では、小学館学年誌(小学2年生などのシリーズ)を取材し、当時の編集者にインタビューを行うくだりがある。
当時の大人たちが怪獣やマンガを有害とみなし、子どもたちの成長を心配する様子が掘り起こされ、なかなか面白い。
今で言うと、任天堂の新作ゲームやヒカキンのyoutubeうごくメモ帳で遊ぶとバカになるのか?と心配するようなもので、親と子、学校と子どもの世相は変わらないものだ と思う。

 

私のウルトラシリーズへの愛着は、「コロタン入門百科シリーズ18 怪獣図解入門」で始まっている。
怪獣図解入門は、講談社小学館の少年誌からスピンアウトするかたちで生み出されたそうで、同書の著者 大伴昌司氏によるはしがきが懐かしい。

大伴氏のはしがきでは、(うろ覚えによると)
「怪獣は実際に存在するものではありません。しかし、皆さんに想像する楽しみに触れてもらいたいと思い、怪獣のしくみを考えた図解を載せています。想像する楽しみを味わってください」
という趣旨のことばが述べられていた。

切通氏の著書によると、
少年誌が育んだ「怪獣図解」の手法、キャラクターをデータベースにまとめ「リアリティ」と「キャラ」を立たせる創作手法は、
その後の子ども文化ーー小学館と藤子先生による「ドラえもん」の秘密道具の体系化、リカちゃん人形のキャラクターづくりetcーーに活かされていったそうである。


そこで、話はジョジョである。
インターネットのいろんな感想を読んでいると、「ジョジョのスタンドはドラえもんのパクリ」、「ドラえもんの秘密道具に、スタンドのアイデアの源流が隠されている」みたいな意見を読むことがある。
私は荒木先生でも集英社の編集者でもないので、創作の舞台裏は分からないが、たぶん、荒木先生が直接にドラえもんからスタンドのアイデアを拝借したことは殆ど無いと思う。

荒木先生が影響を受けたとするなら、藤子マンガそのものよりも、小学館講談社の子ども雑誌、1960~70年代の子ども文化全体に影響を受けたと考えるほうが自然である。
ジョジョのスタンド、スタンド使いと能力を網羅したり、スタンド使いを仮想対戦させる遊びがあるが、個人的には、ウルトラマン仮面ライダーなど、昭和の特撮のキャラクターを網羅する遊びに似たところを感じる。

また、荒木先生はどちらかと言えば、藤子F不二雄よりも、藤子不二雄Aに近しい資質を感じる。
億泰がイタリア料理を食べて「ンマーーイ」と叫ぶのはA先生の影響だし、A先生のブラックでちょっと気持ち悪い作風は、荒木先生に通じるものを感じる。
「魔太郎が来る!!」というA先生のマンガがあり、まだ読めていないのが残念だが、わりと直系で、魔少年ビーティーやディオの造形に繋がっているのではないか と思う。

「絵本」としてのウルトラマンタロウ

ジョジョに殆ど関係のない話題ですみません。円谷特撮、ウルトラマンタロウを視聴した感想の記事です)


ウルトラマンタロウ DVDボックスを購入し、1年近くかけて全53話を視聴した。

ウルトラマンシリーズを視聴するのは「老後の楽しみ」で、各シリーズのDVDをあちこちバラバラに観てはいたが、
第1話から最終話まで、全話を通して視聴したのはタロウが初めてだった。

ウルトラマンタロウは荒唐無稽なおとぎ話で、アラビアンナイトや桃太郎のような、子供に分かりやすい、明るく楽しい「現代のおとぎ話」を目指して製作されたそうである。
そして、その試みは実際に成功している。
私の皮膚感覚では、今なお ウルトラマンシリーズの1番・2番人気は初代マンとセブン、3位がタロウ、4位が現行の最新作という按配で、幼児の支持は分厚い感じがする。
タロウが製作された1973年は、私(1976年生まれ)が生まれ育った時代にほぼ近く、幼い頃の原風景を観る面白さもあり、全話 概ね興味深く視聴することができた。

タロウの第1話 東光太郎がアストロモンスに飛び乗って振り落され、アイタタタで済まされるシーン。
シンドバッドが怪鳥の足にしがみつき空を飛ぶ、冒険物語の明朗さに付いていけるかどうかで、タロウを観れるかどうかの分かれ道になっている。

(荒木先生曰く、)物語にはリアリティーとファンタジーの境界線がある。
クリントイーストウッドの映画は綿密なリアリティ描写の中にファンタジーを宿らせるが、タロウは違う。
ウルトラマンタロウは「絵本」であり、特撮と人情ドラマと親子の情愛を合体させた「動く絵本」がウルトラマンタロウなのである。

絵本、ファンタジーとしてのリアリティを追求し、子どもにとっての真実、物語の筋道を描き出そうとしたのがウルトラマンタロウである。

タロウの1話と最終話は対になっていて、ウルトラの母からバッジを譲り受けた東光太郎が、母にバッジを返し、再び旅立つところで物語が終わる。
(昔から、怪獣図鑑を読んでいて)なぜタロウ最終回の敵はサメクジラなのか、テキトウで間に合わせのような怪獣が最後の敵なのはなぜか? 疑問に思っていた。
しかし、1話から最終話まで通して視聴して、白鳥家の船に乗ってやってきた光太郎と白鳥健一のドラマを観てはじめて納得を得、最終回のドラマにいたく感動した次第である。

1年間の連続ドラマのあいだに光太郎とタロウは成長し、健一君は声変わりし、そしてTVを観ている視聴者も(一年分)大きくなった。
そしてウルトラの母を演じるペギー葉山が優しく諭したとおり、光太郎は最後に、「生きる歓び」を自分で見つけ、掴み出したのである。
光太郎が健一の模範となり、タロウと別れ、タロウが地球から宇宙へ再び飛び出していくシーン。
特撮シーンは第1話のものの再使用なのだが、脚本の妙で、「オギャー」と正面に飛び出してくるタロウがとても晴れ晴れしいラストショットであった。

うろ覚えの記憶なのだが、ペギー葉山さんという歌手は、たしかひらけ!ポンキッキなどにも出演していて、子供向けの歌番組で歌唱を披露していたと思う。
(最近に亡くなられたとき、ドレミの歌を日本語向けに翻訳・歌手として歌っていたと聞いて、その功績を今更ながら知った)

タロウの全てが優れているという訳ではなく、ポリバケツで水をぶっかける特撮シーンには興ざめしたし、
全53話のうち 40%くらいはあまり面白くない話で、オカリヤンの話を観ているときに途中で眠ってしまい、巻き戻す気力が湧かなかったのも事実である。
しかし、概ね 全体としては面白く、一冊の絵本としてTVドラマシリーズを描き切ったまとまりの良さ、「どこに筋を通すか」で一本筋を通しきった漢気に感服している次第である。


ーー最後に、年寄りの繰り言めくが、昭和の頃の特撮ドラマは「大人が子どもに向けて作っている」感があり、安心感をもって視聴することができる。
そうでないドラマが悪い、一律にダメという訳ではないのだが、
子供向けの作品として、「大人の確かな視座」が無いものはどうにも違和感があり、個人的には遠ざけてしまう。

「誰が、誰に向けて何を語るか」というのは物語を成り立たせる根本的要素で、まさにセンテンスの骨格である。
翻って、ジョジョの物語は誰から誰に向けて何を語る物語なのか?
私自身の人生や仕事は誰に向かって、何を語る物語なのか? --そのように、連想が拡がる膨らみを、ウルトラマンタロウは持っていると思う。

「貧弱!」「貧弱ゥ!」 ディオの叫びと「学問のすすめ」

ジョナサン・ジョースターは1868年、明治元年の生まれである。

荒木飛呂彦の漫画術」p92によれば、ジョナサンとディオの1部は1888年、ジョセフの2部が1938年、そして第3部が1988年の話と、50年刻みで100年の時を駆ける3部作が描かれているとのこと。

 

最近、自分自身の足元の振り返りを兼ねて、福沢諭吉の「福翁自伝」、「学問のすすめ」を読み返している。

学問のすすめ」は全17編から成り、青空文庫というwebサイトで無料で読むことができます。けっこう過激な物言いもあって面白く、よかったら初編だけでも読んでみてください。(下記 リンクを張っています)

 

第3篇を読んでいたところ、ジョジョの1部を連想させるくだりがあり、面白かったので下記のとおり 引用いたします。

「貧弱!」「貧弱ゥ!」というディオの叫び声は、荒唐無稽なばかりではなく、19世紀末の近代における帝国主義の争い、「人類を超越し、支配しようとした」DIOの在り様を端的に象徴していたのかもしれない……そんなイメージを重ね合わせています。

 

 

福沢諭吉 学問のすすめ

 

(第三篇)


 およそ人とさえ名あれば、富めるも貧しきも、強きも弱きも、人民も政府も、その権義において異なるなしとのことは、第二編に記せり〔二編にある権理通義の四字を略して、ここにはただ権義と記したり。いずれも英語のライト、right という字に当たる〕。今この義をおしひろめて国と国との間柄を論ぜん。国とは人の集まりたるものにて、日本国は日本人の集まりたるものなり、英国は英国人の集まりたるものなり。日本人も英国人も等しく天地の間の人なれば、互いにその権義を妨ぐるの理なし。一人が一人に向かいて害を加うるの理なくば、二人が二人に向かいて害を加うるの理もなかるべし。百万人も千万人も同様のわけにて、物事の道理は人数の多少によりて変ずべからず。今、世界中を見渡すに、文明開化とて文学も武備も盛んにして富強なる国あり、あるいは蛮野未開とて文武ともに不行届きにして貧弱なる国あり。一般にヨーロッパ・アメリカの諸国は富んで強く、アジヤ・アフリカの諸国は貧にして弱し。されどもこの貧富・強弱は国の有様なれば、もとより同じかるべからず。しかるにいま、自国の富強なる勢いをもって貧弱なる国へ無理を加えんとするは、いわゆる力士が腕の力をもって病人の腕を握り折るに異ならず、国の権義において許すべからざることなり。


 近くはわが日本国にても、今日の有様にては西洋諸国の富強に及ばざるところあれども、一国の権義においては厘毛の軽重あることなし。道理にもとりて曲をこうむるの日に至りては、世界中を敵にするも恐るるに足らず。初編第六葉にも言えるごとく、「日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落とさず」とはこの場合なり。しかのみならず、貧富・強弱の有様は天然の約束にあらず、人の勉と不勉とによりて移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべし。古今その例少なからず。わが日本国人も今より学問に志し気力をたしかにして、まず一身の独立をはかり、したがって一国の富強を致すことあらば、なんぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこのことなり。

ジョジョリオン 2017年11月号の感想、今後の先読み

ウルトラジャンプ 2017年11月号、ジョジョリオンの最新話を読んだ。
岩人間・岩ペットとの決着、プアートムが出てきたところまでの話で、今後の伏線がいろいろと張られた話だった。

ドロミテ、アーバンゲリラとソラティド、プアートムと明らかに「異形」のキャラクターが続々と現れていて、
物語のテンション的に、(作者の表現意欲も)高まってきている感じがする。際どいところ、嫌な感じをうまく織り込んであると思う。

アーバンゲリラのセリフで、「半分 吉良吉影、半分 東方定助…」というセリフがあって、
(メタ的に見ると)主人公の定助はベースが定助(≒ジョセフミ)で、そこに吉良の過去が重なっている、というイメージなんだろう。
これからの展開で、吉良家の謎、「医者」としての仕事と「長生きすること」「病を治すこと」の根幹が問われる展開になりそうで、楽しみである。


もう1つ、いかにもクライマックスに向けて仕込まれてきた伏線として、豆銑さんが「シャボン玉の正体、能力の本質はひも」と気づいた場面があった。

ラストのクライマックス、岩人間の最後の一人(プアートムの後にもう1人出る、強そうな奴?)、常敏や憲助らとの争いで、
主人公のスタンドが何かとんでもない、素粒子物理学のエッセンスを詰め込んだ、チートな能力が覚醒する前振りなのだろうか。

ジョジョのラストバトルは、たぶん「究極の戦い」を意図して描かれてきた節があって、2部のラストで究極の生物が覚醒する展開に始まり。
3部~6部で時を操るスタンドが最後に登場するのは、「物理的な現実世界で、時間を操る者が一番スゴイ」と考えたからだろう。
7部以降のシリーズでは、次元の狭間、黄金比の無限の回転が現れたりと、アイデアを変えたところで、究極の能力を描こうとしているのだと思う。


8部の展開で、一つ残念なのは、カレラと常秀、虹村さん辺りに活躍の機会が無さそうなところだろうか。
虹村さんはホリーさんの復活を受け止める役、常秀やダイヤは東方家の融和を見届ける役割が残されていそうだが、カレラはもう登場の機会が無いかもしれない。

ジョジョリオンの展開は、「カレラが持っていた1枚の写真」がキーになって、一気に面白くなってきたと思うので、
このあたりの伏線・キャラクターが蔑ろになってしまうのは、何となく残念だ。
次のプアートムの話では、(ウルトラジャンプの巻末予告によれば)康穂が中心になって活躍するらしいので、ここで、康穂とカレラが絡んでくるのかもしれない。
プアートムもそうだが、下品でヤンキーなキャラが面白いので、カレラや常秀にもう一花、出番があると嬉しい。

ジョジョ展を観て、泉パークタウンを訪ねた旅の顛末

1991年頃、宅八郎が「さんまのまんま」に出演したときに、「承太郎がポケットに手を入れてたたずむ、キャッチフレーズグランプリのTシャツ」を着ていた。
ジョジョ24巻の表紙になっている、承太郎の背後にドジャーーンとかハートマークとか、いろんなアイコンが描きこまれたポップな一枚です)
ジョジョグッズ」を身に着けた人間を視たのはこのときが初めてで、
宅八郎=キモイオタク=ジョジョという図式が頭の中で繋がった自分は、「ジョジョはやっぱり、気持ち悪いオタクが読むマイナーなマンガで、この趣味はこっそり胸の中にしまっておこう」と思った。

ーーそれから30年近くが過ぎて、家族の薦めがあり、仙台市で開催のジョジョ展を初めて観に行くことになった。
(早朝に関西を出発し、仙台・東京の一泊二日の旅をした)

ジョジョシリーズの原画、カラーイラストやモノクロ原稿を観たのは初めてで、眼福としか言いようのない、貴重な体験をさせて頂いた。
JR仙台駅に到着し、地下鉄に乗った辺りから、ジョジョのグッズやアパレルを着こんだカップル・若者が多く乗り込んできて、駅構内のそこかしこに原画展のポスターも貼られていた。
ジョジョが気持ち悪いマンガで、地下室のオタクのみが好むようなマイナーな存在であったのは過去のことで、すっかり陽の目を見るようになったことを感じて、くすぐったいような不思議な気持ちがした。

ジョジョの原画展はとても興味深く、一言でいえない感想があったが、(画を観た感想を言葉で述べるのは難しく、)このブログが適当だとは思えない。
あえて言えば、かつて宅八郎が着ていた「承太郎のTシャツ」、「赤系の衣装でまとめたDIOのTシャツ」なんかが売っていたら欲しかったが、あいにくそうしたグッズは売っていなかった。
4部・8部のモノクロ原稿は印刷物で見る以上の迫力・奥行きがあり、原画に込められた内容や情感が、印刷技術を介し、薄く広く拡散していることが分かった。
ビタミンCのホログラムビジョンが手元に映りこむのが面白かったこと、
展示会の最後が「岸部露伴が、読んでもらうためにマンガを描いていると宣言する」生原稿で終わったことに、小粋さを感じたことであろうか。


ーーこのブログでは、ジョジョ展そのものの感想・内容に触れることは上記のとおりとして、
4部/8部 杜王町のモデルになったという仙台市の実際の街並み、荒木先生が育った故郷を巡って歩いた概要を記します。

 

  ***


ジョジョ展の展示会場を出て、地下鉄とバスを乗り継ぎ、泉パークタウンへ向かった。

「泉パークタウン(仙台ロイヤルパークホテル、紫山のあたり)が杜王町のモデルらしい」とのネットの情報を得て、
ものは試しと、荒木先生の生まれ故郷である仙台の街を、散策してみることにしたのであった。

旅行から帰ってきて手元の資料・冊子を調べ直したところ、荒木先生はたびたび、仙台郊外の都市開発と、杜王町が生まれたきっかけについて語っている。
jojo-a-gogo! 付属冊子のインタビュー、コミックス35巻・62巻のはしがき。ジョジョベラーのインタビュー。
そして、仙台市が企画した「広瀬川インタビュー」にて、同氏自身が、小さい頃に遊んだ思い出の場所、泉パークタウンや鶴ケ谷ニュータウンの開発から杜王町の構想が触発されたことを詳細に語り下ろしている。

仙台市営地下鉄乙女駅に向かう辺り、地下から地上に電車が抜け出てきた辺りで、線路沿い 高台の住宅を見て「あっ!」と思った。
かつて私自身が育った関西郊外の住宅地、田舎の野山を切り開いて造成したような、そんな住宅地にそっくりだったからである。

泉中央駅からバスに乗り込み、泉パークタウンの敷地に入った。
泉パークタウンは、関西でいうと洛西ニュータウンや神戸市北区のニュータウンのような、山を削って、丸ごと新しい一つの街をつくった住宅地であった。

バスを降りてしばらく歩き、図書館を抜け白百合学園を越えて、紫山の住宅地に入った。
残暑厳しい晴れの日で、カーーッと照り付ける日差しはとても暑く、住宅地の隅々をまぶしく照らしていた。
アンドリュー・ワイエスの風景画のような侘しい一帯があり、殺風景とも言えるが美しいとも言えるような、そんな景色があった。

泉パークタウンという街そのものの良し悪しを、部外者である私が軽々しく語ることはできない。
泉パークタウンという住宅地は、日本に遍在する高級住宅地・郊外を開発してつくられた新たな住宅地だと思う。
街そのものの風景や生活感でいうと、ジョジョ4部の杜王町もさることながら、いがらしみきおのホラーマンガ「Sink」がもっと直接的に、現実に結びつく形でモデルにしている と感じた。


荒木先生のかつてのコメントを紐解くと、jojo-a-gogo!のインタビューでは、けっこう辛辣な、直截なコメントが記されている。
コミックス35巻のはしがきでは「関係者の利益だけを考えて、山を一つ削ってしまう行為。それは犯罪ではないのか?」と、かなり厳しい表現で、自然環境破壊への嘆きが語られている。

杜王町のモデルであるような郊外のイナカの景色。
鉄塔がポツンと立つ山辺の景色や、ネズミが農家に侵入してくるような田園の景色など、(荒木先生が子供の頃は、)そんなイナカの景色が今よりもっと、仙台に沢山残されていたのだろう。

荒木先生の母校である東北学院高校榴ヶ岡校舎から泉ヶ岳方面を臨む山の手の景色。
成育地である若林区の周辺(?) 鶴ケ谷ニュータウンの開発に伴い「子どもの頃遊んだ、裏手の山」が丸ごと一つ無くなったことなど、荒木先生の嘆きは大いに頷けるところがある。

私自身 関西地方の郊外、滋賀県の山の手の住宅地で生まれ育ったのだが、小さな裏山のそばに家があり、自然と共生しているような、そんな親しみを感じていた。
その後引っ越した住宅地は山一つを丸ごと無造作に削ったような愛想の無いニュータウンで、コンクリートむき出しの住宅地には、何となく情緒の荒びを感じたものだった。

しかしながら、よく考えてみると、私が元々生まれ育った山の手の住宅地も、もともと野山・原野であったところを開発し、住宅地として整え両親が購入したものである。
人間が生きて増殖し、地球上に暮らしている以上 必ず自然と「戦い」、自然を「征服」する必要が有る筈で、かつての生家へのノスタルジーは、多分に甘すぎる嫌いがある。


ーー現在 私が思うところとして、泉パークタウンに象徴される住宅開発、「山を削って住宅地を開発すること」を悪であり犯罪であると、単純に否定することはできない。
ただし、私がかつて住んだニュータウンもそうであったし、洛西も神戸も、仙台の泉区も同じかと思うが、新しく作られた街というのはどうしても、まだ「自然に馴染む」ことができていない。

仙台の街を訪れたとき驚いたのが、定禅寺通りケヤキ並木の圧倒的な量感で、街の目抜き通りを歩きながら木漏れ日の中を森林浴しているような、とんでもない自然のボリュームがあった。
仙台の翌日に訪れた東京でも、お茶ノ水~信濃町~四谷、池袋から石神井公園までを電車と徒歩で縦貫していったのだが、
自然と馴染んだ古い建物が美しく、自然と人為の調和した営み、「生活の跡」をそこかしこに見ることがあった。

京都の人は概ね悪口が好きだが、彼らによると、企業や商店を評価するとき、「どれだけ長くやっているか」を重視し、
三代目・四代目と長く続くほど良く、100年単位でお店や企業が存続していないと、あまり重きを置いてもらえない そんな価値観(悪口)があると言う。

ニュータウンと古い街の違いも、まさに同じことで、
仙台市の「花京院」「定禅寺」「勾当台」etcの地名には長い時間を積み重ねたロマンがあるし、ジョジョのキャラクターに通じた重ね合わせもできて、そこはかとない面白味もある。
ニュータウンの歴史が50年~100年と積み重なっていけば、そこに古びができ、長年住み続けてきた人々の足跡が残り、その街独自の「味」が出てくる。
そんなものなのだと思う。


最後に、仙台を旅行してきた結果 勝手ながら荒木先生の胸の内を推測させていただくと、
かつてのニュータウン開発、故郷が取り壊されることへの不安・反骨から、「キレイな反面、不気味さが潜むニュータウン杜王町の構想が生まれ、
また、勿論 それだけではなく、生まれ故郷への愛着を大いに含めて、4部/8部の杜王町が描かれてきたのだと思う。

現実への批判、反骨からあらたな表現が生まれる。

「恐怖」や「不安」をテコに、ホラー映画やサスペンス映画の面白さをマンガで描くアラキマンガの方法論が、杜王町の構想に大いに活かされたのだと思う。

いがらしみきおのSinkと、ジョジョ杜王町は、同じ仙台をモデルにしていても、作品の読み味・印象は随分異なる。
当たり前だが、それぞれの作家が持つ個人的資質、作品で訴えたい感情・内容の選択によって、街の描く表情(=作品への切り取られ方)は、それぞれ異なってくるものなのだろうと思う。

しかしながら自分は、泉パークタウンの瀟洒なホテルやショッピングモールの賑わいよりも、
石神井公園の「ほかり食堂」 650円の日替わり定食と、シワシワに読みこまれたスポーツ新聞の斜め読みに、より多く満足した人間であった。
阪神ファンでもないのに)鳥谷敬の2000本安打にちょっと嬉しくなり、鳥谷ら野球部OBが(若くして亡くなった)級友の同窓会を元日に開き続けていることなど、シンミリ 良い話だと思って読んでいた。

荒木先生の広瀬川インタビューで、ルーブル美術館に象徴されるアートシーンと、電車の中で急いで続きを読む連載マンガの味わい、マンガの「2つの側面」について触れられていた。

自分はジョジョ展で、カラーイラストの美しさ・迫力に感心したこともさることながら、重ちーが爆死したシーンの描画の迫力、吉良と仗助が会合したシーンの見開きの描画など、モノクロ原稿の迫力と工程の履歴に、より心を奪われていた。
ほかり食堂のような昭和の古き良き食堂に、週刊ジャンプが並び、ドラゴンボールキン肉マンジョジョの連載が読まれていた時代もあった。
吉田義男鳥谷敬の2000本安打を祝福しつつも、「守備だけなら私のほうが上手かったですが、走攻守の総合力では、鳥谷君が阪神No.1のショートかもしれませんな」と良く分からない祝辞を述べていた。
プロ野球の記録が100年近くに渡って刻まれてきたのと時を同じくして、少年ジャンプの連載の歴史も、石神井公園や仙台の街並みも、私の人生も少しずつ年を重ねてきていると思う。
「時間の地層」がしみじみと積み重なっていくのは、良いものだと思った。