ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

キャラクターの彫塑、強さの理由(行動原理) 箇条書きの一覧

荒木飛呂彦の漫画術、定期刊行のジョジョマガジンにて、履歴書にもとづくキャラクターづくり、具体的な手法が紹介されている。
ジョジョマガジン3号では、きのこを愛する少年のつくりかたが紹介、
(同雑誌には)履歴書と、キャラクターのつくりかたが文章で記されていたが、これにデザイン画がつけば、そのまま マンガのリアリティだった。

履歴書づくり は キャラづくり で、マンガの根本。キャラクターが居れば、物語はおのずと動き出す と、荒木先生は述べている。

バオー、ビーティージョジョシリーズの主人公たちについて、
キャラクターの彫塑、強さの理由(行動原理) 思いつくところを、箇条書きで記してみた。

 


ビーティー 
特徴 知性、プライド
強さの理由 「ぼくは精神的貴族に属する。そこらのブタとは違うんだっ!」


バオー
特徴 オーバーテクノロジーによる肉体改造
強さの理由 スミレへの思いやり、やさしさ

 


ジョナサン
特徴 家族の誇り
強さの理由 父との絆


ジョセフ
特徴 家族の誇り
強さの理由 ひとずき、知性


承太郎
特徴 家族の誇り
強さの理由 最強である自信。 「俺が、この物語を終わらせる」


仗助
特徴 ふつうの日常に生きる高校生
強さの理由 やさしさ、知性


ジョルノ
特徴 夢を信じる心
強さの理由 凄み


徐倫
特徴 家族の誇り
強さの理由 父との絆 「あたしが、この物語を終わらせる」

 


ジャイロ
特徴 家業の誇りと、近代人の自我
強さの理由 「オレは納得したいだけだ」


ジョニィ
特徴 自立したい。自分の足で歩きたい
強さの理由 「ぼくはまだ、マイナスなんだっ!」


定助
特徴 自分が誰か分からない。アイデンティティー、行き場所が無い
強さの理由 「オレはいったい誰なんだ?」


ジョディオ
特徴 大富豪になりたい。メカニズムの王
強さの理由 自信と覚悟

 


ーーそして、これら12人の主人公たちを生み出してきた荒木先生の、(マンガ家としての)強さの理由は、「好奇心」「幅広い人間性」だと思う。

ウルトラジャンプの巻末コメントやジョジョランズ2巻のコメントで、
「自宅から職場への通勤路 道を歩いていると、近所の方に野菜や食べ物をもらったりします」
「ある日の路上にて、警察官に職務質問された」

作者は、60歳をすぎているのに、警察に職務質問されるとは… と嘆いていたが、
警察官にとっては、道ばたを歩く荒木先生を見て、なにか質問をして確かめたい、得体の知れない何かを感じたのだろう。

ふつうの市井の良い人、ただの凡人では納まらない何ものかがあり、日々の執筆と努力によって凄みがにじみ出しているのが、荒木先生なのだろう。

ジョジョシリーズ 主人公たちの人間関係、位置づけ一覧、ジョセフ・ジョースターの作劇的成功

ジョジョランズ 好評連載中、パコが岩人間(?)と戦い始めた最新話まで読んでいるが、絵が引き締まり、キャラクターの掛け合いに生気があって良い。
シンプルなストーリー展開、シンプルなキャラクターの設定に回帰したことで、作品全体が若返った感じがある。
また、もともとが「クズ」の主人公を設定することで、良い子ではない、魔少年ビーティー以来のアウトサイダーを描く原点回帰をしており、つまりは、アラキマンガの原点に返って描かれ始めたマンガが、ジョジョランズではないか と思う。

 


年末年始に思いつき、ジョジョシリーズの全体を概観した。

主人公チームの人間関係の変遷、キャラクターたちの位置づけの分類を、下記のとおり 一覧表に定めた。
そこから何が見えてくるか、というと、何も見えてこないかもしれないが…、見る人しだいかもしれない。

 

ひとつひとつの部を詳細に語り始めるとキリが無いが、ひとつだけ、ジョセフ・ジョースターの登場と存在は、シリーズ全体にとって、誠に大きなものだったと思う。

 

週刊少年ジャンプ連載当時 ジョジョの1部は、けっして人気作では無かった。ジャンプの後半、後ろのほうに載っていた。
個人的独断に基づき、ぶっちゃけると、
不人気の理由は、主人公のジョナサンがいい子ちゃんすぎる偉人伝のような人物で、小中学生読者の支持を集める人物では無かったこと。
北斗の拳カンフー映画の影響を受けたっぽい波紋法が今一つ地味で、北斗、男塾など競合マンガがひしめく中で、アンケート票を集めるインパクトは、そこまで無かったことだ。

ジョナサンが死んで1部が終わり、まだ続きがある と知ったとき、ほんとに2部まで続けられるのか??、途中で打ち切りになるんじゃないか? と、兄弟で話しあったものだった。

ジョセフが登場し、2部が始まる。
ジョセフは型破りな主人公で、明るく豪快、繊細さも持っている。
ジョナサンが型にはまった主人公だったからこそ、ジョースター家の家訓を背負った初代主人公だったからこそ、ジョセフの対照、型破りの明るさが際立った。

ジョセフはスタローン張りのマッチョだけでなく、トリックバトルを戦いこなす知能を持ち合わせ、ここで、北斗・男塾に負けない、バトルマンガの個性が加わった。
主人公が活きることで、まわりの役者たちも活き、立ち位置と役付けがやりやすくなっていったのではないか。

明るく豪快、少年ジャンプ的な主人公が現れることで、小中学生読者に受け、ジャンプの前のほうに載るようになり、巻頭カラーも増えだした。
荒木先生いわく ジョセフの2部で、ジョジョシリーズは「エンジンがかかった」。

2部の作劇的成功、マンガ的成功を基に、3部以降のさまざまな物語、主人公チームたちのバリエーションが描かれていったのではないか と、わたし自身は思っている。

 


主人公のキャラクターの変遷、主人公チームの配置の変遷は、一律ではない、何ともいいがたい、さまざまな広がりがある。

ジョナサン→ジョセフ→承太郎 が、いずれも性格の違う、立ち位置の違う役者たちであったように、
仗助以降の主人公も、それぞれ、前の部とは変えて、前とは違う物語を演じる役者たちである。

1部~9部までのラインアップで、どんな物語、どんなお芝居が作れるのか? 考えてみるのも楽しいかもしれない。

 

 

1部
[ 主人公 ] ジョナサン

[ 父親 ] ジョナサンの父

[ 恋人 ] エリナ

[ 仲間 ] スピードワゴン

[ 師匠 ] ツェペリ

 


2部
[ 主人公 ] ジョセフ

[ 親戚 ] エリナ、スピードワゴン

[ 相棒 ] シーザー

[ 師匠 ] リサリサ

[ 仲間 ] シュトロハイム

 


3部
[ 主人公 ] 承太郎

[ チームのリーダー、祖父 ] ジョセフ

[ チームの参謀 ] アヴドゥル

[ もの静かな親友 ] 花京院

[ 騒がしい親友 ] ポルナレフ

[ 犬 ] イギー

 


4部
[ 主人公 ] 仗助

[ 相棒 ] 億泰

[ 友人 ] 康一

[ 先輩 ] 承太郎

[ 仲の悪い隣人 ] 露伴

 


5部
[ 主人公 ] ジョルノ

[ チームのリーダー ] ブチャラティ

[ チームの先輩 ] アバッキオ

[ チームメイト ] ナランチャ

[ チームメイト ] ミスタ

[ チームメイト ] フーゴ

[ チームの後輩 ] トリッシュ

 


6部
[ 主人公 ] 徐倫

[ 父親 ] 承太郎

[ 仲間 ] エルメェス

[ 仲間 ] F.F

[ 仲間 ] ウェザーリポート

[ 仲間 ] アナスイ

[ 仲間 ] エンポリオ

 


7部
[ 主人公であり、お互いの相棒 ] ジャイロ

[ 主人公であり、お互いの相棒 ] ジョニィ

[ レースのライバルであり、仲間 ] サンドマン

[ レースのライバルであり、仲間 ] ホットパンツ

[ レースの主催者であり、仲間 ] スティール夫妻

 


8部
[ 主人公 ] 定助

[ 相棒、恋人 ] 康穂 

[ 正体不明の支援者 ] 憲助 

[ 正体不明の隣人 ] 東方家の人たち

[ 師匠 ] 豆銑さん

[ 支援者、家族 ] ホリーさん   

 


9部
[ 主人公 ] ジョディオ

[ チームの仲間、家族 ] ドラゴナ

[ チームの仲間 ] パコ

[ チームの仲間 ] ウサギ

魁!!男塾 硬派な男のカッコ良さとバカバカしさ、リアリティとファンタジーの境目、はざま

魁!!男塾 34巻セットを中古本で購入、三連休に読み終えた。

小学生のころ 週刊少年ジャンプで読んでいたときは、荒くれ者の不良が暴れ回る怖いマンガ、延々と続くバトルものの印象があり、一押しの漫画では無かった。
兄がボギーthe greatの単行本を持っていて、暴漢が女性をひんむく映画をボギーが見ている、というシーンがあり、宮下あきらにバイオレンスの匂いを強く感じ、避けていた節もあった。

子どものときは、秀麻呂が鉄板焼きの上で跳ね回るイジメを受けたり、暴力、イジメを連想させるシーンが苦手で、子どもながらに、身近にひそむイジメの恐怖におびえていた。
去年かおととしの冬 酒屋の店頭で江田島平八の焼酎を見かけて買ってみたり、男塾のYouTubeまとめ動画などを観ているうちに、男塾への興味が再燃。
34巻をとおして読み返したわけだが、大人になった今では、不良やヤクザにびびることなく、おおむね面白く読み終えた。
以下 男塾を通し読みした感想を語っていきたい。


  ***


子どものときは、男塾のあらくれぶり、不良ぶりがどうしても苦手。北斗の拳も同様の理由で苦手だった(はじめて読んだジャンプがキバ一族の話で、絵が気持ち悪かったのを覚えている)

いま読むと、宮下先生のバンカラごのみ、豪傑、男へのあこがれ。Wikipediaにも述べられている「硬派な男のかっこよさと、ばかばかしさ。その両面を描いていきたい」という作者の意図が、よく分かる。
なので、男塾のごっつさ、豪快さ、ばかばかしさを、受けとめ、楽しみながら、1巻より読み進めることができた。

読み通して思うのは、(大多数の男塾ファンの方には申し訳ないのですが)自分の好みはいささかナンパより、軟弱で、
バトルものの面白さかっこよさもさることながら、日常話、学園ものの男塾に、より面白さを感じる ということだった。

個人的に男塾で面白かったのは、1巻2巻、油風呂や秀麻呂、富樫がバーさんの厄介ごとに巻き込まれる日常話。4~5巻 関東豪学連との命を懸けた男の勝負。34巻 風雲羅漢塾とのエピローグだった。

秀麻呂と椿山の話は子どもながらに印象に残っていて、今回 読み直しても、そのときの印象は同じだった。
最初 イヤな奴だった秀麻呂が、桃太郎たち仲間のために300kgの旗を持ち上げる。
松尾と田沢、鬼ヒゲのやりとり、人情話。
椿山が小鳥を大事にしているエピソードに始まり、全編を通して、宮下先生は動物好きだなあ という印象があり、雷電がサルを大切にかわいがっているエピソードなども印象深い。

自分が宮下マンガをもっとも面白いと感じるのは、硬派な男のかっこよさと、ばかばかしさ。リアリティとファンタジーの境目、はざまにある。
その意味で、藤堂兵衛との戦いを通じてバトルの極限、この世の勝負、スポーツ、ありとあらゆる戦いの全てを描き尽くした、出し尽くしたのではないかと思われた男塾が、
最後、地元の商店街に帰って、暴力団事務所への殴り込みで貫目と団結心を競う、リアリティ寄りの展開に戻ってきたのは嬉しく、何ともいえない読後感の良さがあるエピローグだった。

男塾1巻の1ページめを開くと、「死ねい貴様ら!死んで祖国の御盾となるのじゃーーっ!」の鬼ヒゲの絶叫から物語が始まる。
文部省の役人が撮影した男塾の授業風景で、1980年代の現代でこんなばかばかしい、時代がかったスパルタしごきをしている奴らがいるんですよ… というところから物語が始まる。

宮下あきらは、いわゆる軍国主義者ではない。戦争や暴力、力による支配を肯定しているわけではないが、ないがしかし、男の生きざま死にざま、硬派の生きかたというものは厳として求めており、
1980年代中盤 好景気の平和な日本において、いかに男のいきざまを求めうるのか? 作者の問いかけと共に、男塾の物語は始まる。

江田島平八が文部省の鼻の穴に指をつっこみつつ、「男塾の学生は落ちこぼれなんかじゃねえ。こいつらこそ、政治文化経済、これからの日本の中枢をしょって立つ若者たちよ」と宣言する。
その伏線は風雲羅漢塾とのエピローグで回収され、熊田と江田島が自らの教え子たちを讃えあい、地元の飲み屋にふたり肩を組んで消えていく というところで、男塾の物語は終わる。


リアリティとファンタジーの境目、はざまとは、ユーモアをどこに入れるか、という問題でもある。
宮下あきらに限らず、すぐれたマンガ家はすべからく、ギャグ、ユーモアの名手である。
原哲夫ゆでたまご荒木飛呂彦鳥山明手塚治虫… 枚挙にいとまがない。

マンガを描く、創作するという行為は、(素人である自分がおこがましく、噴飯ものの憶測ですが)
つくりての中で自己対話を重ね、時間軸の流れの中で他者との対話を重ね、主観客観、さまざまな視点や意見、考えの中で練りこまれるものではないか と思われる。

そして、自己内対話、自己と他人の対話を繰り返す中で、客観性の発揮として、ギャグ、ユーモアが練りこまれる… 創作とはそんなものではないか と、個人的には捉えています。

 

男塾 1話、大日本帝国陸軍を模した突撃訓練をツカミに、江田島塾長と文科省の対決、直進行軍のとんでもないドタバタで物語が始まる。
男塾の猛者たちはどう見てもふつうの高校生ではなく、これはふつうの人たちではないですよ…という体裁をとりながら、ときに、小中学生の琴線に触れる人情話をやり、ドタバタをやり、カッコいいバトルものをやり… と、エピソードを積み重ねていく。

バトルものとしての男塾、その後のストーリー展開の基盤は、伊達たちとの戦い、コミック5巻までで出来上がっている と、私は見ている。
「お、おまえらはーーっ!」ではじまるキャラクターたちの復活から始まり、次の敵へ、次の敵へ、もっとすごい戦い、もっと面白い戦いを見せる。このキャラクターはもっとこんな魅力が描けるのではないか という試行錯誤を積み重ね、激しいバトルが描かれ続けていく。

バトルものの描写が限界に達し、読者からの人気の維持が一定ラインを下回り、連載の打ち切り、終了が決まる。
そこから10週、連載を終え物語を締めくくるにあたり、宮下先生は超人的な戦いを終え(キャラクターの超人拳法を封印し)、男塾に戻る。
風雲羅漢塾との対抗戦を通じて、男塾とは何ぞやを総括し、そして卒業式を迎え、主人公たちと読者を、リアリティーーマンガの外へと送り出す。

 


ギャグマンガでもなく、バトルマンガでもない。複雑微妙、多種多様な側面を持つ男塾というマンガを、ひとことで語りつくすことは難しい。
長文を書きつらねてきたが、なかなかうまくまとまりません。

独眼鉄が「男とはなんぞや、人生とはなんぞや」と問いかけた、問答の答えは、作品の中に散りばめられています。

キャラクターたちの設定や言動に矛盾、食い違いがあったりしますが、そんな細かいことはどうでもいい。
宮下あきらが男を描きたいと思って描きはじめて、男の根幹はブラさず、ひとつの幹を、男のいきざまを描ききった。
それが男塾というマンガであり、そのときどきで宮下あきらが最大の読者サービス、面白いと思う戦いをふるまい続けた、その結果が、全34巻に展開された、バトル、エピソードの数々なのだと思います。


男塾を読んで、1つだけ引っかかるところがあります。
美形キャラ、ベルサイユのばらっぽい男装の麗人キャラが出てきたときに、富樫と虎丸が「オカマに負けてどうするんじゃ~~っ!」と煽る。しかし、やわな見た目と裏腹に男気が強く… というパターンがあります。
30年くらい前の連載なので仕方ないですが、2020年の現代ではちょっと、問題になりかねない。
男と女のジェンダーについて、ちょっと古臭い、現代的ではないところもあります。

家族に男塾を薦めていたのですが、妻、子ともに男塾を読みたがる節はありません。
「男を磨け!!」
「女の中にも男はある。男を磨け!!」

悦に入って、江田島塾長ばりに声を張り上げるものの、何をバカなことを言っているのか…と笑われるのが、わたしの家族まわりのリアリティであるようです。

映画 SANDLANDの感想と思い出

ジョジョランズ 1巻が発売され、シャムネコ軍団と決着がつく最新話までをウルトラジャンプで読んだが、ジョジョランズにはあまり語りたいことが無い。
ネコの描写がうまくなっていて、陰でデッサンを積んだのだろうか と思わされたのと、ウルトラジャンプ最新号の表紙 4人組のカラーリングが良く、描いてて楽しそうだなあ という感じがある。
今月の話で4人組がひとまずまとまって、メリルメイチーも単なる悪人ではなさそうで、序盤は終了。次回の話からいよいよ、ジョディオが大富豪になる話、火山の溶岩をめぐるミステリーが本格的に始まっていきそうである。

 

夏休みの後半 鳥山明原作の映画 SAND LANDが公開され、息子と共に観に行った。
高校生になる息子と映画を観にいくのは、これから先 もうあまり何度も無いと思うので、貴重な体験だった。

夏空に湧く入道雲がすごい日で、写真を撮る。映画館から見る街並みの景色も写真に収めた。

SAND LANDの映画を観る前に思い出していたのだが、鳥山明原作の絵本 てんしのトッチオという本があり、
子どもが生まれて絵本を見るようになった頃、アンパンマンずかん、かいじゅうたちのいるところ等と共に、てんしのトッチオも、絵本の棚に忍び込ませていた。
だがしかし、てんしのトッチオは幼児にとってパンチが弱く、印象に残らない凡作だったようで、あまりこの本を読み返すことは無かった。
アンパンマンスーパー戦隊のほうがおそらく、子どもの記憶に残っているはずである。

SAND LANDの漫画本も我が家にあるのだが、子どもいわく 漫画本を読んだことは無く、きょう はじめて、SANDLANDを映画で観て、ストーリーに触れたらしい。
ドラゴンボールは(大人が言わずとも、勧めずとも、こども本人にて)ストーリーを知り、キャラクターに親しみ、マンガやアニメ、カードダスの細かな設定、ドラゴンボールGTのキャラクターとストーリーまで事細かに把握していた。
ドラゴンボールという作品の持つパワーは、やはりすごいものらしい。

こどもいわく SANDLANDの映画は、ふつうに面白かったらしい。
4DXの演出付きで観たので、座席が揺れたり、水が噴き出したりする演出を、あわせて楽しむことができた。

映画は、原作漫画を忠実に再現していた。
アクションシーンやセリフのやりとり 細かなところが原作漫画から違っていた気もするが、違和感を感じることはなく、ああ、こんな話だったなあ…と思い返しつつ、すなおに映画を楽しんだ。

ひとつだけ、映画と原作漫画で違いを感じたセリフ、場面の有無があった。
映画になかったシーンで、原作漫画にあった、印象的なやりとりがある。

たしか、アレ将軍だったか誰かが、国を救う活躍を見せたシバ将軍(ラオ)に、国の中枢に戻ること、世の中にふたたび戻ってきてください と語りかける。
ラオはこれを断り、笑みを浮かべながら「わたしはジジイだ。ゆっくり休みたいんだ」と答える。

このやりとりが、映画には無かった。なぜか?
(真相は知らないので、わたしの推測だが)脚本家や映画監督の独断ではなく、原作者 鳥山先生の意向によって、映画のエンディング、テイストをちょっと変えたい という意向が働いたのではなかろうか。

コミックカバー 作者コメントより、
原作漫画は、もともと ジジイと戦車の話を描きたいというところから始まって、あとから(週刊少年ジャンプに掲載する都合、物語的なバランスをとることも考えて)悪魔の王子、魔物たちの設定を追加して、物語を膨らませていった と記憶している。

執筆当時 老境に入りつつあった鳥山先生のつぶやき、心境、連載漫画の戦いを終えた老人の気持ちを投影したキャラクターが、ラオだった。

今回の映画で、そこをあまり強調せずに、悪魔の王子と老人の旅の話、戦車で夏の砂漠を駆け回る冒険譚に仕立て直したのは、
やはり、夏休みに家族連れで映画を観にくるお客さまへの配慮、Vジャンプ最強ジャンプを見て映画館にやってくる子どもたちへの配慮で、あまり、老人の心境をにじみ出させる映画にしたくなかった。
そんな鳥山先生のプロフェッショナリズム、子どもたちへのやさしさが現れたものだと睨んでいるが、どうだろうか。

ドラゴンボールが終わったあとの鳥山マンガでいちばん好きなのが、COWA!である。
SANDLANDがヒットしたら、映画化第2弾でCOWA!がスクリーンに上映する可能性もあるのだろうか、無いだろうか。
映画化されることがあれば、ぜひ、楽しみに観に行きたい。

宮崎駿監督の遺作 「君たちはどう生きるか」

かつてスティールボールラン 夜の雨の死闘で、ブラックモアはこんなことを言った。
「人には使命がある…肉体的な小さな命なぞを超越した、大いなる使命が!」

宮崎駿さんの使命は「きれいなもの」「ふしぎなもの」「動くもの」を描くこと。
以前 イバラード井上直久氏とのインタビューで、星が生まれて跳ね回る、そんなふしぎできれいなシーン、きれいな動きをアニメートしてみたい と、若い時から考え、取り組み続けている と話していたことがあった。

ーー宮崎駿監督の「遺作」といえる、「君たちはどう生きるか」は、そんな宮崎監督の使命、生涯の集大成、宮崎駿さんはどう生きてきたか を思い起こさせる、とても熱い映画だった。

 

ひとことでいえば、この映画は、少年版の「千と千尋の神隠し」、あるいは千と千尋の20年後の続編である。

ストーリー、展開は王道。

少年の心、成長。

生と死、火と水。

夢オチ。少年の見た夢

リアルとファンタジー

人はなぜ夢を見るのか。起きて見る「夢」


千尋、眞人。
病床から起き上がり、水差しの水をのみ、クッと、画面左を見据える。 眞人の力強い横顔は、神隠しから帰還した千尋とかさなる、「未来」を見据えたまなざしだった。

 


映画の描写は速く、過剰な説明をせず、夢と夢をつなぐようにどんどん進む。
こまかな描写に謎、違和感が生まれると、次のシーンか次の次のシーン、(映画を観てる時間で)2~3分以内に回収されるので、スジが分かりにくい、分からなくなる ということは無い。

しいていえば、主人公が大叔父と面会した後、いきなり、インコに捕まって捉えられているのが、漫画太郎的なギャグに感じ、はじめ戸惑った。
(大叔父から積み木を託された後、積み木の一つをつかって描いたのが、インコ軍団と戦う眞人の物語。少年漫画的なヒーローものになりそうでならない、ショボい結末になったのが、宮崎駿の意地悪さだろう)

宮崎駿は、マンガや映画をつくるとき、さいしょの一コマをまず描いて、次のコマを描いて、シークエンスを書きつらねていきながら、描きながら、終りを考えていくのだ という。
この映画は、まさにそんなつくりかたをしている。
いわゆる起承転結、ハリウッド的なエンタメ映画のつくりかたは踏襲していないので、テンプレートから外れているという意味で、たしかに分かりにくい。
3才~8才くらいの幼児が話す(大人からみれば)脈絡のないつくりばなし、眠っているときに見る、脈絡のないふしぎな夢。そんなものを思い起こしていただければ、ストーリーの流れかたに納得いただけるのではないか と思う。

 


宮崎駿のサービス精神によるものか、映画の節々でジブリっぽい動き、飛びかた、アクション、定番のキャラクター描写が出てくる。
この描写を新規で見るのはこれで最後か、と思うと、ちょっと感慨深いものがあった。

映画を観ていて、泣けたシーンが3つほどあった。
・眞人が、母から託された「君たちはどう生きるか」を読むシーン
・わらわらが浮き上がり、夜の空に浮き上がって、飛び立っていくシーン
・ジャムトーストを(想像の中の)母がつくり、眞人がほおばるシーン

 

大叔父さんと面会、積み木で世界は一日くらいは持つだろう… のシーンくらいからは、作者のメッセージが強く出てきて、映画を畳みにかかった。
このあとどうやって終わるのかな… どういうつじつまで夢から醒め、現実に帰るのか。どうやって継母と折り合いをつけ、生きる力を得て、現実に帰っていくのか…? だったが、
インコの王さまがしょぼい失敗をして世界が崩壊、すべてがくずれて現実に帰る、しょぼいラストだった。

幼児が語るほら話は唐突な、あっけない終わりかたをするもので、宮崎駿の語る夢も、あっけなく終わった。
この映画を観ている自分も、(たぶん、上映時間100分くらいをすぎた、上記シーンのあたりから)トイレに行きたくなり、映画への集中力が途切れてきていたので、
インコが失敗して、世界がくずれて夢から帰るとき、ああ、やっと終わったか… というかんじだった。


戦争が終わって、父と母、弟、家族みなで疎開先から東京に帰ることになる。
玄関先で家族から「眞人、いくぞー」と呼びかけられ、「はーい」と主人公が部屋を出る、あっさりとしたカットで、唐突に映画が終わる。

リアルとファンタジーの境目はそんなものだろうし、あれだけのファンタジーを描いた、生み出した子ども部屋はひっそりしずまりかえり、次の主を待つ。
夢を生み出すのはリアルであり、夢、ファンタジーこそが、人の生きる力である。

映画のエンディング、スタッフロールはとてもしずかで、全てのシーンが終わった以上、何の演出、何の飾りも無い。
歌がながれるのにあわせて、スタッフロールが延々と流れていくのみである。
スタジオジブリの往年のスタッフの名前が見え、(おそらく、宮崎駿の弟子であったり、後輩、仕事仲間であっただろう)協力会社、アニメスタジオの名前がズラッと出てくる。

スタッフロールの最後に出てくるのは、原作・脚本・監督 宮崎駿

騒がしくなく、しずかに映画がおわったのがとても良かった。


映画を観たあと、お医者さんへ、検診を受けにいった。
コンピュータのモニターに「年令:46歳」とあるのをみて、まだまだ若い!と思った。

君たちはどう生きるか を改めて問われる映画であったし、生きる力とは何か。宮崎監督からとんでもない傑作、とんでもない映画体験、感動をいただいた。
そんな土曜日の映画体験だった。

ジョジョランズの「軽さ」 露伴が登場した理由を考察する

ジョジョランズ 露伴が出てきて、ジョディオと対峙する話にひとくぎりがついた。
シャムネコのスタンド使いが、どうも絵が下手な感じがするのだが、荒木先生はネコを描くのが苦手かもしれない。

ジョジョランズに露伴が登場したとき、なんのために露伴が登場したのか、その意図がすこし気になった。
実写映画の宣伝、荒木先生の思いつき、シャレ。作者が出したくなったから出した、ただの思いつき… 正解は分からない。
作者の真意は分からないが、いわゆるオールスター路線、過去キャラが無意味に再登場して懐古的お祭りになるのはあまり好きでないので、露伴がジョディオたちと対峙して、そういう路線にならなかったので一安心した。

ジョディオが「4つの円の短編」(岸部露伴は動かない ホットサマーマーサ)が良かったなあ と語るくだりがあり、たしかに、この短編は切れ味がよく面白かった。
露伴がマスクをかけて登場して、コロナ禍の現実に苦慮しているという、エッセイ的な身軽さが印象的で、ジョジョランズにもそんな、時代に通じよう、現代のノリ、身近な楽しさ、軽さを入れていこう というノリを感じる。

ジョディオたち4人は、ほんとうの(?)プロの犯罪者集団というよりは、まだ何者にもなっていない、未完成、未成熟な若者たちである。
犯罪をやっていることはたしかなので、罪への報いをどこで受けるか、やがて、物語のなかで語られていくのだろう。


なぜ、露伴ジョジョランズに登場したのか? こたえは謎だが、話のなかで、意味あるピースとして、露伴とジョディオの関係、露伴の存在が置かれていきそうなので良かった。

ひとつ わたし自身の想像をさいごに披露すると…
8部 ジョジョリオン露伴を出そうかという構想があったが、ジョジョリオン露伴(、あるいは露伴のリメイクキャラ)は登場せず、出しそびれたので、次の9部序盤に、8部との繋がりを出すキャラとして、杜王町露伴を出した。

ジョジョリオンは街を描く話で、狭く狭く、内にひきこもっていくかんじがあった。A4のコピー用紙を折りたたんでいって、どこまで折れば、月まで届く高さに近づけるか…というかんじ。
もとの話がA4コピー用紙1枚分なので、折って、折って、話が複雑になっていくが、最初を折り間違えると、あとを続ける、修正するのがなかなかつらい…。
ひとことでいうと、引きこもり的な良さ、(作劇上の)難しさ、両面がある話だったと思う。

ジョジョランズはハワイを舞台に選び、犯罪者予備軍(?)の若者たちを主人公に選んでおり、話が軽く、現代的で、「クズ」的な要素を散りばめ、15歳の若者たちを描いていこう という意図を感じる。
若返った物語展開が楽しいので、クズ的な主人公たちの生きざまを、現代とリンクしながら、軽やかに描いていってほしいものだと思う。

キン肉マン的軽やかさがあってもかまわないと思うので、次号の最新話で、いきなりシャムネコのデザインが変わって、いまのウサギ?ネコ?な不気味デザインから、リアル系のネコなんかに変わっていても面白い。
次号冒頭に注目したい。

デビルマン 全5巻を読む

 

今年のゴールデンウィークは身体をゆっくり休めようということで、5月3日からの5連休 何もせず、食べて、寝て、また食べて寝て…とゆっくり、なにもせず過ごしていた。
起きている時間はプロ野球を観たり、YouTubeを観たり、まったく生産的なことをせず、他には、マスクを外してスーパーに買い物に行ってみることくらいしかしなかった。

YouTubeで昔のマンガ、特撮、アニメなどの懐古チャンネルを見ているうちに、男塾からの流れで、永井豪 けっこう仮面デビルマンが出てきて、あれこれの動画を見た。
デビルマンの結末、ラストにいたる一連の展開を知った上で、デビルマンの漫画本が読みたくなり、岡田斗司夫の勧めにしたがって、完全復刻版 デビルマンを購入、1970年代 若かりし作者たちが描いた、原典の5冊を読んだ。

デビルマンを読んで、やっぱり凄かった。結末とラストへの展開、作品に込められたテーマなどを、前情報(爆笑問題永井豪の対談番組 これもYouTubeで観ていた)で得ていたので、サプライズの驚きは無かった。
サプライズは無かったが、やはりスゴイマンガで、マイナスの方向に突き抜けていく展開がすごく、コマ割りのうまさ、ストーリーのすごさ、予想を裏切り期待を裏切らない血みどろの展開に、ぐいぐい引き込まれ最後まで読んだ。

夜の海岸 主人公2人に巨大な光の軍団が迫る、最後の2ページがある。
ネタバレを知らず、中学生くらいの自分が週刊少年マガジンを読んでいて、思春期の心でこの話を読んでいたら、いったいどんな感想を持っただろうか…。 まっさらな心で読んで、向かい合ってみたかった、そんな稀有なマンガだった。


そして、デビルマンを読んで今更ながらに思ったのが、これは現在にいたるさまざまなマンガ、アニメの源泉、インスピレーションになっているに相違ない という事実だった。
エヴァンゲリオンチェンソーマン、寄生獣、東京喰種。これら諸作品をまともに読んだことは無く、傍目で観たことがあるだけなのだが、「ああ、なるほど…」と腑に落ちた。

ジョジョの荒木先生は、デビルマンを読んだとき小学校高学年くらいだったはずで、間違いなく、リアルタイムで読んでいた筈である。
jojo a gogo! 作者が読んだ小説や漫画のコーナーにデビルマンが載っていた気がするが、はっきりとは思い出せない。コミックス見返し 何かのランキングやコメントに、永井豪作品が触れられていたような気もするが覚束ない。
否、作者コメントやインタビューに頼らずとも、肝心の漫画作品 バオー来訪者の敵役 魔人ウォーケンが、永井豪作品の、あのモンスターのカオの描きかたをしている。
悪魔的なロックにのめりこみ、キングクリムゾンやピンクフロイドを聴きこむ10代を過ごしたという荒木先生は、自らの芸術体験のルーツのひとつとして、間違いなくデビルマンを通過、経験している。今更ながら、そのことが分かった。

(ついでにいえば、自分が読み込んだ漫画 ドラゴンヘッドで、伊豆の群衆が暴徒と化すシーンがあり、さながらデビルマンのクライマックスとそっくりである。望月ミネタロウ先生は最近 コミックエッセイを連載しており、東京怪童への未練を述べている。
 東京怪童 脳みそむき出しのモンスターは、あまりかわいらしい、子どもたちに受け入れられるデザインには見えないのだが、望月先生は、永井豪楳図かずお、東西ホラー映画を観すぎて、脳に影響を残してしまったのだろう…と思われる)


ジョジョという作品を観て、ヘンというか、変わっているところは、かつて斎藤環先生が述べた「過剰な健康性」、悪に対する善、善に対する悪がはっきりと描かれ、2つの対称・対立がくっきり、しっかり描かれているところである。
過剰な健康さ、過剰な健全さの変てこりんなところは、作者である荒木先生の作家性、善悪どちらに振れているのかよく分からないところもある、作家の個性につながっている。

ディオ・ブランドーの悪に対置するかたちでジョナサンが構想され、ジョナサンは概念的、抽象概念のような人物で、いま読むとあまり人物に血肉が通ってないというか、親近感を抱きにくい節もある。教科書に描かれる偉人像のような人物だ。
しかし、1部の物語を読んでいくと、泥水で口をそそぐエリナ、おせっかいやきのスピードワゴン、「あしたっていまさ!」と叫ぶポコとその姉。ジョナサンを囲む登場人物に、正義の心を体現し、物語を演じるキャラクターが複数登場する。
ポコであったり、川尻早人エニグマと戦った噴上の活躍。遺体を求めたルーシースティールの奮闘など、ジョジョには、あまり強そうでない、主人公でない人間たちの活躍する系譜がある。6部のラストを飾ったエンポリオもそうである。

ディオに始まる悪役たちの系譜と、ジョースター一族とそのまわりにいる人たちが織りなし、体現してきた正義の系譜。その二つがぶつかり、正義と悪、それぞれの戦いを描いてきたのが、ジョジョのサーガであり、物語なのだろう。
そしてその戦いは、9部 ハワイのジョディオの物語に続き、現在に至っている。


キン肉マン 週刊プレイボーイで連載中の物語は、ザ・マンとバッファローマンの戦いが終わり、次回 いよいよジェロニモネプチューンマンが塔の上で観た景色、「これは神も動くわけだ」の正体が述べられ、明かされようとしている。
デビルマンの神と悪魔の戦いと、キン肉マン 神と悪魔、人間(≒超人)の戦いは、かなり様相が異なっている。キン肉マンはきっと、デビルマンとは全く違った、神と悪魔、人間の戦いを描いていくのだろう。

ゴールデンウィーク デビルマンと並行し、気になったマンガ作品に「ちいかわ」がある。
仕事上の関係で、知人の方が読んでいて気になった作品で、1巻を買って、すこしずつ読んでいる。
「ちいかわ」と「デビルマン」の間に在るものが、現実の、地道な人生かな という気がしているゴールデンウィークである。