ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

およげ!たいやきくん ポンキッキ音楽による人生賛歌

最近 さるきっかけがあり、ひらけ!ポンキッキの後継番組「ガチャムク」がBSフジで放映されているのを知って、日曜日の朝 これを視ている。

ひらけ!ポンキッキは自分が幼少のとき感銘を受けた番組で、大人になってから調べた後付けも含めて、当時の制作者たちの本気、志やアイデアにうならされた番組だった。
身近なところでは、スティービーワンダーやビートルズの曲が短い映像のBGMに使われていて、青少年になってから、あの曲はこれだったのか!と気付いたことが何度かあった。

1980年代のテレビ番組は今 振り返るとテンポが速く、予算も豪華で、ビートたけしの出ているもの、ひょうきん族ポンキッキ、フジテレビの制作放映しているものを好んで見ていた。
ひょうきん族のエンディングに流れていた曲で山下達郎をはじめて聴いた気もするので、ここ20年ほど フジテレビをあまり視ないが、当時のフジテレビ、少年ジャンプが自分に与えた文化的影響は大きかった。

ポンキッキは1990年代中盤にリメイクされ、ポンキッキーズとなったが、コニーちゃんのじゃんけんを見て、いかにも幼児風、子供だましだな と思った記憶がある。
文句をつけつつもポンキッキーズも少しは視ていて、和田アキ子の歌うよく分からない歌はスルー、鹿賀たけしの歌うジャナイを聴いて、ジャナイのほうはシングルCDを買ってしまい、やたら黄色いジャケットだったことを覚えている。

ガチャムクは1970年代当時 ポンキッキ草創期の楽曲、コニーちゃんのじゃんけん、今日現在のことばあそびなどが入っていて、
私からすると、3世代の映像が入り混じっているような、記憶が地層になってミルフィーユとして提供されているような、そんな不思議な感想がある。
自分が孫を持つようになって、自分、自分の子供、孫 3世代を重ねて見るような体験をすれば、そんな感慨を持つのかもしれない。


ガチャムクを視ていると、ガールズガールズの2人がダンスをしながら、パタパタママ、みんなともだち、イーアルカンフー ポンキッキのヒットソングを歌って踊るコーナーがある。

およげ!たいやきくん」 子供のとき聴いて、あまりに毎日 ポンキッキで流されるので、繰り返しにうんざりした記憶がある。
この曲も、大人になってからキンクスのサニーアフタヌーンで元ネタ(?)を発見し、大人になって意外な再会をした。
(この記事を書きながら振り返ってみると、ポンキッキで聴いた曲に大人になって再会したというより、ポンキッキの頃に聴いた曲が、その後の音楽的嗜好、趣味の基盤を作った といったほうが妥当、適当かもしれないと思う)


およげ!たいやきくん 子供のときは辛気臭い歌だな と思っていて、
サラリーマンが脱サラして失敗する というストーリーは幼児ながらに理解したし、
繰り返し聴くにつれ、広い海に出て泳いだのならそのまま好きに生きればいいじゃないか。ショボイ奴だな という趣旨の感想を持つようになった。

今 聴いてみると、毎日 鉄板の上で焼かれているなら、焼かれたあとに廃棄処分にならず、その次の日も鉄板で焼かれ直すのはおかしくないか?
海で釣りあげられ、見知らぬオッサンに食べられた後 たいやきはどうやって生き帰り、だれにむかってこの歌詞をつぶやいたのか? と、どうでも良いつじつま合わせの疑問も湧く。

たいやきくんが自由を求めて海に飛び出し、楽しいようで思うがままに生きられず、最後は小汚い見知らぬ他人に食べられてしまう哀しみ。
幼稚園に通っていた頃 自分が抱いた感想は、見知らぬオッサンに食べられる哀しみ、残念さが先に立っていて、大人になったオッサンが聴くと、自らの人生の履歴と重ねて、演歌調にしみじみとする。
たしかにこの歌はよく出来ている。制作者に想定外のヒットを飛ばしたのも納得できる と改めて感じた。


この曲をいま 聴いて、自分をたいやきくんに重ねて、オレの人生 思うままにはならないな とションボリすることは無い。

無いがしかし、この歌のうたっているテーマは運命論、ジョジョ5部 ローリングストーンズのエピローグで作者が描き説いていた、あの運命論のテーマにピッタリである。

およげ!たいやきくん 哀切のあるメロディーと歌詞は、必ずしもヒーローになれない、おっさんおばさんとして生きるしかない、中年に向けた人生賛歌なのだろう。

水木しげるの猫楠

水木しげる先生のマンガで、もう1本 記事を投稿します。年末年始 ふだん溜まっていて、なかなか読めなかった本、調べごとに手を出しています)


水木しげる「猫楠」を読んだ。

南方熊楠の生涯をネコの語り部から眺めて描写したもので、自分的には、岸大武郎てんぎゃん」のその後をやっと読めた、という思いだった。

てんぎゃんは、ジョジョをてがけた椛島編集と岸先生による熊楠を描いた偉人伝マンガ(?)だが、ジャンプで人気を得るには至らず、たしか20週で連載終了したと記憶している。
子供のときに天狗と出逢い、ゲロを吐く奇癖があり、海外に修行に出たあたりで連載が終わった。

岸先生のマンガはチャレンジングで、椛島編集の手引きもあったと思うが、恐竜大紀行、てんぎゃん 今でいう「○○年早かった」企画で連載マンガを描いていて、
これで人気を取るのは難しかったんじゃないか と、(連載当時から)30~40年が経った今となっても、同じことを思う。

少年ジャンプの盛衰はともかくとして、南方熊楠 青年時代のその後、日本に戻ってオッサンになって、結婚して子供をもうけ、死ぬまでの生涯を、同居するネコの観点から描いたのが「猫楠」である。


猫楠の読後感としては、なんともいえない悲しさ、わびしさがある。
南方熊楠さんのひとり息子 熊弥が高校受験に出発し、旅先で病気となり、病気の療養に家族が苦心する「第15話 大いなる哀しみ」。

それまでの14話が、熊楠の常人離れしたエピソード。豪傑めいた、やや下品な素振りと奇行。その裏腹の繊細さ、興味ある学問への集中と粘着。
猫や妖怪、幽霊を織り交ぜてのオカルティックな世界観、死生観を織り交ぜたもので、奇人よりのちょっとかわった偉人伝、明治大正の豪傑物語を読んでいるような風合いがあった。

すこし浮世離れた、「ふつうとは違う人たち」「昔の時代の、よくもわるくも豪快な人たち。人情もの」を読んでいるつもりでいたので、
この15話 熊楠と息子さん、奥さんと妹さん ご家族の苦労、苦心が描かれた一話には驚かされたし、涙は出ないが、何とも複雑な感傷を得た。

熊弥が暴れ、(親子でともに描いてきただろう)粘菌の彩色画をビリビリに破き、熊楠は涙する。妹の文江は、それがはじめてみた父の涙だった --というエピソードなのだが、
ギョッとさせられ、悲しむより先に呆気にとられ、事実の残酷さに打ちのめされた。


水木しげる遠野物語 Amazonの感想を読んでいると、ひとつひとつのエピソードに起承転結が無い、話が短すぎる、ヤオイ、話づくりが雑で絵と噛み合っていない… という意見があった。
もともとが遠野地方に伝わる素話、民間伝承、(話づくりのプロではない)おじいさんおばあさんが考えた民話なのだから、山無し落ち無し意味無しになっても仕方ないだろう と私は思うが、
近現代 エンターテインメントの発達した現代に住む私たちは、首尾よくじょうずに整えられた物語に慣れ親しみ過ぎて、荒っぽい現実、物語の素朴な原初のかたちーー口承で伝わる素話、ただのまったくの事実ーーから遠ざかってしまったのかもしれない。

水木しげる 2020年末に読んだ2つのマンガ 遠野物語と猫楠は、ただのまったくの事実、現実に存在する荒っぽいリアリティを、あらためて私に突きつけるものだった。


さきほど テレビで黒柳徹子を取材したドキュメンタリー(プロフェッショナル 仕事の流儀)をやっており、
黒柳徹子は、本当のことを喋りたい。徹子の部屋でもゲストと真心こもったほんとうの話し合いを交わし、それを視聴者に観ていただきたい と意気込んでいたが、
一方で、テレビ番組を作る以上 企画編集の意図があり、ひとさまに観ていただく見世物として、面白おかしく、視聴率も伴って仕上げなければならないことをよく理解していた。

ジョジョの荒木先生に言わせると、リアリティとファンタジーの境目、
ジョジョリオン25巻のはしがきで述べていた)作者である自分が描きたいことと、読者に伝えねばならない読ませたい事柄、商業出版のさまざまな制約 2つの狭間、矛盾である。


荒木先生は、ホラー映画とサスペンス映画を扱った2つの新書を出している。

自分が観た映画の感想をカテゴリー別に語るゆるい本だが、その中でときどき、真実に触れる鋭い言葉を述べている。

「人はなぜ物語を求めるのか。ホラーやサスペンス映画があるのは、現実がホラーとサスペンスだからであり、現実からの逃避、そして、映画を観終わった後、人はふたたび現実に戻る」
という趣旨のことを、新書本で述べていた。

※いま 新書本が手元に無いため、文章表現までは不確かですが、そんな趣旨のことを述べていました。


猫楠を読んで、家族の幸せ 心身の健康を、自分も含めて大切にしようと思う、そんな年末の一日でした。

水木しげるの遠野物語

ジョジョとほとんど関係のない話題になり、すみません。水木しげるさんのマンガについて触れた記事です)


年末年始 仕事と家事が落ち着いて、ゆっくり趣味、本を読む時間がとれている。

映画「怪獣大戦争」 X星人の優れた未来感覚、土屋氏の熱演、いわくいいがたい宇宙音・宇宙演出を楽しんだり、水木しげる遠野物語を読んでいた。


水木しげる先生のマンガは、鬼太郎以外の地味なものが好きで、水木先生の飄々とした人生観、虚実あいまじるオカルトのウソを楽しみつつ読んでいる。

水木しげる遠野物語 作者が84~85歳のころ 晩年を迎えたときに描かれたもので、その筆致、民話の味わいを楽しみ読んだ。


私の習慣として、一冊の本やマンガ、映画を読み終わった後、インターネットであちこちのレビューを巡り、よしあしの感想を訪ねるクセがある。
映画を観終わった後 いっしょに観にいった人と映画の感想を語りあうようなもので、自分が読んだ、観た体験を他の人と共有し楽しむ。また、自分の知らない補足情報、発見や示唆を得たいからである。

遠野物語 amazonの感想を読んでいて、オヤと思ったのが、
水木プロのアシスタントが回顧録(のマンガ本)を出しており、どうもこれらによると、晩年の水木先生はあまり絵を描いておらず、プロダクションのチーフアシスタントたちがおおむね多数を描いていたらしい ということだった。

私自身は、遠野物語の絵と描写、原作をなぞり東北の田舎を旅する枯れた味わいに感動していたので、水木先生がこの本を描いていない? ウソだったのか、感動を返せ! となった。


ゴルゴ13や本宮ひろしが作画をアシスタントに任せているという話は有名だし、ドラゴンボールやプレイボールの新作も、元の作者ではない他人が描いている。
プロダクションチームがマンガを作ることを否定するものではない。

しかし、水木先生の魅力、本質は「絵」にあると私は思っており、
(老齢を迎えた今 生活の楽しみとして)「ガリガリ君がスキです。冷たくておいしい」とうそぶきつつも、根本 ウソをつかない誠実な人だろう と水木先生を見ていたので、
ジョジョコミックの読者コーナーよろしく「大人はウソツキだ!」と、作者に裏切られた読者のような気持ちになってしまったのだった。

ーー冷静になってコミックを見返すと、遠野物語の表紙、カラーイラストのはしばしに「MS」というサインが入っていることを思い出した。

ほかならぬ、Mizuki Shigeru 水木先生が自筆で描いたという、作者のサインである。

遠野物語 表紙のカバーイラストは、遠野を歩く水木先生を、河童や猿、妖怪たちが取り囲み、石の裏からざしきわらしがそっと覗きこむ という可愛らしいイラストである。
作中 女の子のざしきわらしを大きく描いたイラストがあり、とても可愛らしく、この絵も水木先生に違いない と信じることにした。


マンガ制作において、どこまで水木しげる本人が関わり、どこから先を他人(アシスタント)に任せたのか。
たしかな証拠、資料が無く、憶測を述べることしか私はできない。

遠野物語の企画については、現地の観光協会か何かとコラボして制作されたと思しいが、
遠野の民俗伝承に興味を持ち、現地へ取材に行き、マンガのネームを割ったところまでは、水木先生が行った。そのことは間違いないだろう。

水木しげるが取材にも行かず、チーフアシスタントがネームを割ってマンガを描くとなると、
それは一年前の夜 紅白歌合戦でAI美空ひばりが「お元気でしたか」と視聴者に語りかけ、ビートたけしがむせび泣いた、何とも締まらないあの泥仕合と同じレベルに、水木さんが地の底に堕してしまうことになる。
そんなことはない と信じたい。

つげ義春の回想で、水木しげるの妖怪画 点描を来る日も来る日も描かされ、綿密な背景を描くのが大変だった と聞いたことがある。

昔からの作品も、晩年の遠野物語も、水木しげるの背景画 写真をもとに描き起こしたであろうリアリティ、ペンと紙の素材特性を活かしきった見事な描写、
ストーリーを基軸にした手塚治虫流マンガとはまた異なる、一枚のペン画が連作していくような、まさに紙芝居が進化発展したような、水木マンガのそんな凄みは、プロダクション全体の合作、労力の結晶によるものだろう。
あんなに手の込んだイラスト、コマの集まりであるマンガを、ひとりの作者で〆切までに毎週描くことはとてもできない。

水木先生の描く人物 背景とは対照的に、間の抜けた、勢いのあるいきいきした描線で描かれているが、ゆでたまご先生にも通じる、何ともいえない味。
マンガは(かつて)紙にGペンで描くものだったが、書道で筆跡に人を現わすのと同じく、マンガの描線に、まさに、水木しげるが現れている。

遠野物語 大きな決めゴマ、主だった人物は水木しげるが描き、こまごました人物、小さなコマはチーフアシたちが皆で描いたのでは と類推しているが、事実はどうだろうか。
水木マンガの人物画 チーフアシたちがタッチを似せて、かなりの程度 水木しげるに似せて描き込んでいると思うので、それはそれで、技芸の伝承として大したものだと思う。


長々と描いてきたが、私は基本、マンガは一世一代、作者本人にしかそのマンガは描けないものだと思っている。

理由は単純で、絵にしてもストーリー作り、アイデアにしても、その人にしか出せない個性、その日その時その場で生み出された瞬間こそが、オリジナルだと思うからである。

ジョジョを描く荒木先生も、「人物はぜったいに自分で描く。これは譲れない」と、(たしか、4部~5部くらいを連載していた頃だと思うが)何かのインタビューでてみじかに答えていた。

ジョジョ5部のテレビアニメ 作画を見ると、かなり原作の画風に近く、もしかしたら荒木先生より絵がじょうずなアニメーターさんが作画をしているかもしれない。
昨今 NHKで放映された「岸辺露伴は動かない」の実写ドラマも演者の熱演があり、なかなか面白いそうである。

ーー片意地を張っているわけではないが、私はこれらに食指が伸びない。

「長谷川和夫 認知症の第一人者が認知症を患い、「悲愴」を聴きながら家族と共に老いを過ごし、死を迎え入れるドキュメンタリー」

「強度行動障害の子供さんがいる一家が、福祉施設にわが子を入所させるにいたるまでを取材したドキュメンタリー」

円山応挙伊藤若冲の描く動植物画を比較して鑑賞する美術番組」

怪獣大戦争

プロ野球SP 伝説の好プレー珍プレー一挙公開!! 2020」

これらはテレビの番組表を見てオッと思ってすぐ見たり、録画したり、感動したが、岸辺露伴~はもとより見ようとも思わなかった。

それは、これらメディアミックスが荒木先生の作品ではなく、ジョジョを題材にした、他の作家たちの作品だからである。


プロ野球珍プレー好プレー集を見ていて納得いかなかったのは、ガルベスが審判にボールを投げつけ、吉原が止めにはいりひじ打ちされた映像を紹介して、
「(今では許されないことだが、)平成の時代 プロ野球には、荒くれ者たちが多かった」と、ヤンキーのヤンチャを振り返る風の〆としていたことだ。

1998年当時もガルベスの暴挙ははっきりと暴挙であり、長嶋監督が頭を丸めて、当の審判、プロ野球へ謝罪の意を表したものだった。

また最近 プロ野球の記事を読んでいて感心したのは、清原が巨人へのFA移籍を考えていたとき、さる仲介者を通じて巨人サイドに伝えられたのが、
「一塁でのレギュラーポジションを確約してくれたら、西武から巨人へのFA移籍を宣言したい。(落合と一塁のレギュラー争いをすることは避けたい)」
というものだった。

当時も今も残念に思うのが、このときの清原にもうすこし男気があったら、落合と清原で巨人の4番5番を担い、2人にまた別の道、松井を含めた巨人軍にもう少し別の未来があったのではないか ということだ。

また、最近読んだ記事では、ダイエーホークスのフロントマンだった瀬戸山氏が、中内オーナーの男気、南海ホークスを買収し、根本、王たち尽力のもと、負け犬軍団が常勝軍団に生れ変わっていった過程も興味深く読んだ。


30年前 昭和から平成に移り変わった頃 巨人は強く、王さんはかっとばせキヨハラくんに登場する冴えないオー監督で、南海ホークスあぶさんだった。

30年が経ち、読売新聞はすっかり老人向けの広告情報誌となり、巨人人気は凋落、王さん率いるホークスが球界の王者として君臨している。水島先生も漫画家引退を発表し、しずかな余生を過ごされている。


ーーあまりにも余談が長くなってしまったが、昭和は遠くなりにけり と物思いにふける、2020年の暮れである。

ジョジョリオンに残された謎 「壁の目」とは何か

ジョジョリオンが連載100回を迎えて、主人公と岩人間の戦い、ロカカカの実と東方家の因縁は佳境を迎えている。

物語の糸筋はだいたい解きほぐされつつある と(私自身は、読んでいて)感じるが、ひとつ、開幕当初から残された「謎の存在」がある。

壁の目とは何なのか。

連載第1回 東日本大震災が起こった直後に描かれた第一話で、地震が起きたその日の夜 壁の目が隆起した とナレーションが入っている。

地震が起きた後に隆起した海岸線の壁、海から来る何かを阻むかのように、海から来る何かから街を守るかのように、壁がそそりたっている。

ーー2011年から10年近くが経った今 改めて考えると、どう考えてもこれは、震災直後 東北地方が津波に襲われたことへの悲しみと怒り。
仙台で生まれ育った作者の故郷への愛着、どうしようもない怒りと嘆きが生み出したアイデアだろう。


物語の設定上は、話数が進み、ジョニィジョースターが「聖なる遺体」を杜王町に持込み、海岸沿いに埋めて隠したこと。
100年前の事件から、杜王町の海岸ぞいに、聖なる遺体のご加護が宿ったらしいことが示唆されている。

悪魔の手のひらと同じく、海岸線の一帯は「特別な土地」となり、大震災の後 壁の目が隆起した。

ややもすると大震災が起きる前に壁の目が隆起して、街を津波から防げばよかったじゃないか と言いたくなりますが、
そこは、リアリティを重んじる作者のスタンスがあり、現実に起きた災害を無視、絵空事にはできないとして、あえて、地震の後に隆起されたのだろう。


「岩人間」という敵のアイデアは、おそらく、自然、土着、もう一つの人類の可能性… というところで、
人類とは相いれない人類の敵、主人公たちの敵役として設定された存在だと思う。

杜王町(≒仙台)という固有の土地にて、地元の街に生きる人々。人間と自然の共存、争いを含めた関係のやり取りが、主人公と岩人間の戦いではないか。


連載101話以降 あと2~3話くらいで、岩人間との戦いが終了。
東方家(地方都市。地面から生えるフルーツを育てる、その土地に生きる人々)の争いを描き、人間と街の関係、杜王町の未来を描いたところで、8部の物語は終幕するのではないか と思う。

4部の杜王町に較べて、あんまりハッピーエンドな、イタリアっぽい?明るく楽しい感じが薄くなっていますが、
リアリティー寄りの、日本らしい、じめっとした、ひっそりした地方都市を作者は描きたかったのかもしれない。

私自身の独断として、そんなことを思っています。

 


参照記事:

sougan1976.hatenablog.com

ソクラテス、プラトン、アリストテレス 師匠と弟子、神と超人のドラマ  完璧超人始祖編を深読みする

ジョジョとほとんど関係ない話題となり、すみません。9月連休中 ヒマのあるときに頭に浮かんだメモ、キン肉マンの忘備録です)


キン肉マン 完璧超人始祖編は、神とその弟子、弟子がいかにして師匠を越えうるか 人類の起源と可能性に切り込んだ、壮大な大河ドラマである。

私の個人的解釈では、神とはすべてを統べる絶対的存在、この宇宙、世界すべてを創造した何者か。唯一絶対の存在である。

完璧超人始祖編 ザ・マンは、超人たちを産み育てた全てのルーツとして登場し、そして一番弟子のゴールドマンに倒された。
キン肉一族のドラマはそこそこに、ザ・マンと完璧超人始祖、神と弟子たちのドラマでとんでもない盛り上がりを見せたシリーズであった。


ザ・マンとゴールドマン、10人の始祖との関係は何かに似ている。
西洋哲学の偉大な開祖たち ソクラテスプラトンアリストテレスたちのドラマに似ている。

(ここから先 西洋哲学、西洋史をきっちり学んでいる人にとっては噴飯もの、鼻白む妄想が展開されているかもしれませんが、あくまで直感、勉強中の身の個人用メモです。ご容赦、ご笑覧ください)

西洋哲学の開祖 世界史に名を残すプロフェッサー(先生、教授、プロフェッショナル)のひとりが、ソクラテス
その弟子であるプラトンはレスラーであり、政治家を志し挫折したいいところの坊ちゃんであり、ソクラテスに哲学を学び、アカデメイア(アカデミー)を興した。
プラトンの弟子がアリストテレスアリストテレスはバランス感覚に優れた人で、師匠のイデア論に論駁し、知的論争を行い考えを深める。体系化、整理に秀でた人で、アレクサンダー大王の家庭教師を務めた。

3人の賢人が世界史に名を遺したのは、3人の業績、著書がすぐれた力を持っていたことは勿論であるが、
古代ギリシャ アレクサンダー大王の家庭教師をアリストテレスが務めていたから、彼らの名前と評判が世に残った とも言える。
政治経済 実業の世界と、抽象的な哲学者の世界はリンクしており、卵とニワトリ どちらが先かを問うような、一致不可分の関係にある。


私自身 教育、保育。「学校」はどのようなものか、いかにして作り、運営することが可能か ということが、数年来のテーマとしてある。
保育教育の元ネタ、大きなルーツのひとつが、ソクラテスたちの時代、プラトンの作ったアカデメイア(アカデミー、学校)に残されている。

ソクラテスプラトンアリストテレス。3賢者の言動 どこまでが史実で、どこからが語り部による脚色・伝説化なのか、私には分かりかねるところがある。
しかし、三者三様 背景が違い、キャラクターが違う3人の「レスラー」たち、超人たちの戦い、語らい、生き様には、頭と心、体を大いに揺さぶられるところがある。


ーー勢い任せの文章で、訳が分からないものになっているかもしれませんが、そんな刺激、直感を受け取っています。

ゆでたまご先生によると、ザ・マンや調和の神たちは古代ギリシャの神々をモチーフとしている とのことですし、
プラトンの時代からレスリングがヨーロッパに連綿と受け継がれ、馬場猪木の近代プロレスに繋がっているのですから、
上記のメモは、あながち荒唐無稽でもないのではないか と思っています。


古代ギリシャの神々をレスラーとして登場させたり、知性の神だからメガネをかけた堅物にしようとか、
なんともいえず直截的な、不気味なほどの素朴さ凄みをもったアイデアは、ゆでたまごならではのものでしょう。

荒木先生はこのあたり、宗教や神に対する扱いがもう少しクールで、7部SBR イエスキリストを模した存在を登場させたものの、名前を明言することは無く、「遺体」「ある人物」とぼかし一般化する、冷静さと賢明さがある。


個人的には、キン肉マン(=ゆでたまご 嶋田と中井、2人のペア)の真骨頂は清濁あわせのむ大らかさ、くだらないものをくだらないままに描くギャグマンガ家の器量にある と見ている。

その意味では、唯一絶対の存在であるザ・マンを倒して、さらにその先に同格の神々が居て、12人の神がいて、超人連合軍がそれと戦って… という展開は始祖編の二番煎じ、すでに解決したテーマを繰りかえす引き伸ばし、マンネリにしかならないだろう と、直近の連載をすこし醒めた目で見ている。
(とはいえ、ウェブ連載が更新された月曜日中にはかならず最新話を読み、今後の展開を予想、あれこれ感想を楽しんでいますが)

キン肉マンの面白さは時流に乗った節操の無さ、嶋田先生のすこし破れたキレたアイデア、中井先生の愚直ながらもときによく分からない、人間の業、おかしみをマンガで描き出すところにある と思う。

レオパルドンのネタバレ、吉野家の丼 嶋田先生はときどき騒動を起こし世間をざわつかせるが、これも含めた人物像の全体が、キン肉マンゆでたまごの性質ではないだろうか。

キン肉マン 王位争奪編の最後をやっつけ気味に終わらせ、ゆうれい小僧、スクラップ三太夫、(名前がすぐに思い出せない)謎のグルメ漫画を経て、キン肉マンを再び描いている作家である。

唯一絶対、完全無欠の神とはかけ離れた、失敗だらけ、矛盾だらけの嶋田先生と中井先生だからこそ、完璧超人始祖 神と人間の戦いを描くことができたのは、何とも面白い構図ではないだろうか。
本ブログで繰り返し述べているが、キン肉マンという作品こそは、2人の友情パワーによる賜物だと思う。

透龍くんと院長 2人の敵役、正体を予想する

お盆休みで暇になったので、ジョジョリオン 19巻~最新話(第99話)までの展開をザッと読み返してみた。

透龍と院長の2人が入れ替わるように登場して、主人公らを惑わせる展開となっている。

以下 私の展開予想が当たるか当たらないか 定かでないが、2人の敵役について改めて考えた。

2人の敵役 正体について、
透龍くんは院長に利用された只の岩人間であり、基本的には善良な若者。
生に執着する、老醜の院長が何らかのかたちで若者(透龍くん)に取りつき、利用している。 

岩人間どうしでの支配ー被支配 緊張関係があり、
一方で、主人公たち 人間の若者の連帯、友情や愛情のつながりと対比させている。

そんな構図になっているのではないか と思う。


ここ数話の展開を読むと、
透龍くんがスタンド「ワンダーオブU」の本体であり、院長の姿をした何者かがスタンドビジョンという風に描写されているが、
スタンドバトルのルールに馴染んできた読者からすると、どうにもおかしく、しっくりこない。

院長がスタンドビジョンであるならば、科学雑誌の記者と問答できたり、一般聴衆を前に講演を行ったりできるのはおかしい。
スタンドが一般人に見えたり、一般人と同じく社会生活を送っているとなると、スタンドのルールが崩壊してしまう。

また、透龍くんが康穂と付き合っていた頃からさかのぼり、邪悪な院長(の正体)だったとすると、キャラクターの行動動機でつじつまが合わない。

あらき100%さんのアナグラム解析によると、
透龍と明負、TRUE と FAKE、ドッピオとディアボロのような二重人格的関係となっている とのこと。
2人の敵役 どちらが正体、敵の正体は何か? の謎で、話を引っ張っているのは確かだと思う。

個人的には、明負 悟という名前をはじめて読んだとき、明負(めいふ)=冥府を悟る、生と死を司る悪のボス、医者のイメージを悪い方向に増幅しているのだな と感じた。

ジョジョリオン コミックのはしがき、荒木先生のコメントを読むと、
お医者さんに行ったら座薬を挿入されたとか、親戚の方(50代)が骨折してお見舞いをしたとか、病気や健康にまつわる話が多い。
どこの家庭にもありふれた、身近な、ショボショボとしたエピソードである。

8部の杜王町が4部のそれと違ったテイストになっているのは、
執筆時点の作者の年令、そのときどきの興味関心、身近にあり知りたい探りたいと思ったものが移り変わっているからだろう。


医者の老人 一代かぎりの生に執着するエゴイストが明負院長で、
定助たちと仲間になることは無いにしても、院長に利用された若者、康穂をめぐる恋敵であり仲間という役どころが透龍くん、という展開に進むのかどうか。

たぶん私の予想は当たらないと思うが、第100話以降の展開を読んでいきたいと思う。

種の起源、超ひも理論、ジャパニーズホラー アリの目タカの目で、ジョジョリオンを深読みする

ウルトラジャンプ2020年8月号 透龍君の出生が明かされ、人間(ホモサピエンス)と岩人間 炭素生物とケイ素生物の同異が解説される回を読んだ。

とても面白く刺激的な内容の話で、(残念ながら、先月くらいのブログ記事で書いた)透龍はただの医学生で院長が黒幕 という、私の予想は外れてしまった。
3~4年前くらいから、ポツポツ ジョジョリオンの展開予想をブログに書いているものの、
ストーリーのアウトライン、テーマの掘り下げみたいなところはともかく、毎回毎回の展開予想、エピソードやキャラの積み重ねみたいなところは、まったく、予想が当たらない。
「予想は裏切り、期待は裏切らない」という言葉があるが、そういうどんでん返しの連続が、おもしろい連載マンガの条件なのだろう。

先月号 第98話の感想に戻るが、院長が「長旅をしている者が最も事故に遭いやすいのは帰宅直前だ」とつぶやくシーンがある。
身につまされる箴言だが、「家に帰るまでが遠足です」と同じく、リスク管理、安全管理の要諦である。

院長のセリフは、SBR ジャイロとジョニィがアメリカ大陸横断の旅を振り返る一幕をほうふつとさせるものがあるし、
先月号くらいから、豆ずくさんと定助のやりとりでも、
天と地の間を見渡す壮大な感じが出てきたり、主人公が回転するしゃぼん玉を武器とし、友人どうしの信頼を武器に戦うことを発言したりと、
7部から8部へと引き続く、物語のクライマックス感が出てきている。

定助の回転するしゃぼん玉は、先端の物理学 超ひも理論あたりをエッセンスに持ってくるのではないか と、以前に予想していた。
「回転」というキーワードを、7部から引継いで使いたかったための引用で、この先あまり掘り下げることは無いかもしれない。
しかし、今月号までの描写だと、主人公サイドが院長と透龍に打ち勝つための手が見えないので、形勢逆転の秘策として、回転するしゃぼん玉の、何らかのパワーアップ、ものすごいバージョンアップが出てくるかもしれない。

私は物理学に疎く、雑誌のニュートンWikipediaのかじり読みしたくらいしか分からないのだが、無知蒙昧を覚悟で言うと、
シュレーディンガーのネコ」、状態の重ね合わせ。
定助はそこに居るかもしれないし、そこに居ないかもしれない。
透龍と院長も2人の人間が同時に重なっていて、そこに居るかもしれないし、そこに居ないかもしれない。同時に居るようであり、かつ、どこにも居ない。

そのような、日常素朴の常識では測りづらい物理現象、素粒子物理学の最先端で測り明らかにされつつあるような現象をもって、
透龍と院長の謎を明かし、2人の合体人間であるような定助の特性も活かされ、ロカカカによる生命融合の現象も解きほぐされるような、なにかものすごい力技をやってくるのではないか。

「岩人間は社会生活を持たない。ハチミツが好き」と数行の記述から、今月号の冒頭にあったような透龍の出生話まで、お話を膨らませることができるのだから、
荒木先生であれば、何かとんでもない、デタラメでもありながら面白い、そんな展開を持ってくるのではないだろうか。


また先日、ひょんなきっかけからダーウィン 「種の起源」(光文社古典新訳文庫 上下巻)を買った。
パウルクレーっぽい表紙絵につられて選んだら、挿画は望月某という日本人イラストレーターによるもので、エッ!と思ったが、これも分化の歴史をあらわす一つなのかもしれない。

(長大な本文を読み通すのは大変なので、まずは)訳者解説を読んでみたところ、ダーウィンが述べた種の起源、のちに続く進化生物学の発展 これは丸っきり、今月号のジョジョリオンで描かれていた内容だな… と頭に浮かんだ。
荒木先生が、ダーウィン種の起源に始まる生物学の論争、理論の発展を知っていて、これらを元ネタに岩人間と主人公たちの戦いを描いている、といったほうが正確で、
いわば、8部ジョジョリオンの元ネタの一つは、種の起源である というところである。

種の起源 同文庫本のしおりには、(私のような生物学に疎い)一般読者のために、用語解説の書かれたしおりが付いている。
引用すると、下記のとおり。

生存闘争 = 生物が生存可能な数以上で増えるために起こる存続をめぐる闘い

自然淘汰 = 個体における有利な変異を保存し不利な変異を排除する、自然による選抜の過程

創造説 = すべての生物は神が個別に創造したものだという説

交雑と雑種 = 遺伝的なタイプの異なる個体間での受精や受粉、すなわち交配を交雑という。またそれによってできる個体が雑種

雑種の不稔性 = 交雑によって雑種ができない場合と、雑種はできるがその雑種に生殖能力がない場合がある


ーーいかかがでしょうか?

岩人間とロカカカの登場、誇り高い農民である豆ずくさんの哲学・社会観など、上記 種の起源の用語集からビビビッと来るものがあって、
「普遍的で大きな物語」を荒木先生が今作で描こうとしているのだな ということが伝わります。

これに、犬神家の一族~近年の貞子、犬鳴村なんかに通じるジャパニーズホラー、近代日本の個人と家族を巡る生きかたの問題をからめ合わせれば、
ジョジョシリーズ8部 ジョジョリオンの基本設定、材料のレシピが出来上がり というところではないでしょうか。


今月号の前半で、わずか3~4ページの描写ながら、石仮面とディオ~スタンド、弓と矢~悪魔の手の平、杜王町の地面。
ルーシーの若妻時代とその後、ジャイロとジョニィ、エルメェスとエンヤ婆の再登場 と、往年のファンに懐かしい一幕がありました。

これらの描写は、単なる懐古、ファンサービスではなく、
今作 ジョジョリオンで描かれつつある展開は、1部~3部、1部~7部までとつながった一連の展開、まさにジョジョシリーズの最新の展開。
番外編でも他と途絶した物語でもなく、30年に渡って積み上げてきたシリーズの、現時点の最新のクライマックスですよ という、作者からのインフォメーションだろう。

であれば、先月号くらいからとみに描画のテンションがあがり、場面場面の絵が丁寧で、力感が高まってきたのも頷けるというものである。


種の起源 交雑と雑種、雑種の不稔性の概念は、モロに、岩人間 透龍の誕生を連想させる。

作中では、理那(ジョニィの妻)が折り紙のように、岩のような皮膚になった描写が描かれたのが初めだったが、東方家に遥か昔から受け継がれてきたらしい石化の呪い病。
これも、はるか昔の東方家のご先祖が、どこかで岩人間と交わったこと、交わらないはずの交雑、雑種が産まれたことが、後々の禍を呼び込むことになったのだろう。

ジョジョ 1巻のはしがきで、作者は、「人間」と「人間以外のもの」の戦いを通じて生命賛歌を描きたい と、シリーズの抱負を述べている。
この文章自体は、コミックス発売に際して急かされた半ばヤッツケ?の文章である と近年のインタビューで作者は述べていたが、
これは荒木先生のテレ隠しであり、
文章そのものが書き出された当初 必ずしも沈思黙考して書かれたものでないにせよ、
1部、2部…7部、8部 30年以上に渡りシリーズを書き連ねる中で、繰り返し頭に浮かび、考え抜かれたアイデアの筈である。

ジョジョシリーズは、石仮面を被り吸血鬼(超生物)となったディオとジョナサンの戦いに始まる、人間と、人間ではないものとの戦いである。
2つの異なる種の戦いを通じて、人間とは何か 人間というものの姿を描き出し、生命賛歌を歌う。
このコンセプトを、60歳を迎えた作者が、いまの杜王町で描こうとしている。

かつて、4部連載開始当初にあったともいう、「次の1000年を支配する何かが、杜王町の地下に眠っている」というアイデアを、
7部 悪魔の手のひら、8部 (聖なる遺体のご加護で力を持ったのだろう、)杜王町の地面で、数十年の間隙を挟み、描き出そうとしている。

作家の仕事というのは、10年~30年、長いスパンで描かれるものでもある と改めて思う。


もちろん、ここで書き連ねたようなストーリーやテーマの深読みは、私個人の憶測によるところも大きいし、
ストーリーやテーマのもっともらしいこじつけをすれば、その話が面白くなる という訳でもない。

キャラクターやバトル、描写や構図、場面展開のカッコ良さというものこそがマンガの要諦で、
ストーリーやテーマの深みは、それらの後ろに隠れた、大きな、目に見えづらい構成要素だろう。

アリの目とタカの目 目の前に見える現実と大所高所の全体像 なにごとにも2つの視点(構成要素)があると思うが、
そんなところで、ジョジョリオン、荒木マンガ、いろんなエンターテインメントを噛み砕き味わえると、複眼的でけっこう面白いのではないか と思う。

 

 

(追記)

2020年8月 お盆明けに発売された、ウルトラジャンプ最新号。ジョジョリオンの連載100回目が掲載された号を読んだ。

豆ずくさんがシャボン玉にやられて、死にそうな雰囲気が漂ってきたが、最後に見せたのが、ひもの回転。

超ひも理論の何だかスゴイ展開で、院長に反撃することは間違いなさそう。

私個人の予想では、豆ずくさん(の遺体?)をヒモにして、連携技で院長を攻撃するのではないかな? と思う。どうなるだろうか。