ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

「無敵のヒーロー」から遠く離れて

このブログ記事で、本ブログの記事は200本目の投稿になる。
数字にとくに意味は無いが、数字の節目が積み上がってくるのは何となく嬉しい。

本ブログでは、ジョジョ7~8部のことを主に書いているが、これは現在進行中の部であるからで、
個人的には、ジョジョシリーズのベストは1~3部、なかんずく3部で、中学生のときに熱中して読んでいた。

ひらがなの書き方や、「おはようございます」「ごめんなさい」のあいさつをメモ帳に書き留めずとも暗唱できるように、
小中学生までに読んだマンガは、自分の中に刷り込まれてしまった「概念」なので、言語化して整理する必要は無い。

ジョジョリオンは現在進行中のストーリーであり、ジョジョシリーズの全体像は、触れ直すたびに新たな発見・気づきがあったりもして、
それらをブログに書き留めているーーという次第である。


ジョジョリオンの連載は、定助が礼さんにしばしの別れを告げて雨弾に撃たれ、病院に担ぎ込まれたところまで進んだ。

定助が自らのアイデンティティーの不確かさ、記憶が無く、生家(肉親との絆、つながり)を喪失しており、だからこそ前に進みたい と訴えるくだり。
過去編のジョセフミから繋がるキャラクター設定なのだが、捉えようによっては、とても重たく辛い来歴である と感じた。

荒木先生によると、ジョジョシリーズ キャラクターたちの戦いは1対1で、善と悪を問わず、孤独な者たち同士の戦い、ひとりぼっちになった者がお互いにどう機転を働かせ生き残るか みたいなことを描いてきたそうである。

3部 ヴァニラアイスとの戦い「答えは3」のやりとり、ポルナレフがイギーやアヴドゥルのおかげで勝てたのか、自身の力で勝てたのか みたいなところである。

3部の承太郎は「無敵のヒーロー」で、3部作を完結させる主人公としてとにかく強く、産まれ育ちにもスタンド能力にも弱点は無かった。
(4部~6部にいたって、物語のテイストが変わっていくと共に、承太郎の役割も変わっていったが、3部の時点では完全無欠のヒーローだった)


近作 7部、8部ではずいぶんテイストが変わって、主人公たちはまったく無敵ではない。

ジャイロは謎の風来坊として登場するが、ジョニィに秘密を打ち明けた後、大統領に勝てず死んだ。

ジョニィもマイナスから始まった主人公として登場し、下半身不随の障害は克服されたが、成長しつつ成長しきれないという若さを残したまま、杜王町で子どものために死んだ。

初代主人公のジョナサンからして、ディオを倒してハッピーエンドというわけにはいかず、ジョセフも死んだと思わせてちゃっかり生き残るなど、
当シリーズの主人公は、スーパー戦隊みたいな勧善懲悪、悪を倒して正義の栄がやってきた、という終わり方をしない作風でもある。

現在連載中のジョジョリオンでは、定助は記憶喪失(震災前の記憶はたぶん回復しない)、ジョセフミとして産まれたときから孤独に、親の愛を得られずに育ってきた。
定助が空条家のルーツを探索しないのは、物語進行上のアラでは無く、設定を覚えているからこそで、
「そこに行っても、自分の求めるものは得られないので」、探しに行かないのだと思われる。

先日 8部11巻~21巻を読み返したのだが、過去編のところは面白く、ジョセフミと吉良のエピソードは心動かされるものがある。
(続くドロミテのゾンビエピソードは作者の趣味に走っていてイマイチだが、最後 赤ちゃんが定助を追い詰めるくだりは良いと思った)


ジョジョリオン 終盤にいたって、定助と常敏、2人の男がどう立ちまわるのか、
表の主人公が定助、裏の主人公が常敏というかたちで、ロカカカの実をめぐって院長との駆け引きを繰り広げながら、ラストまで突っ走っていくのではないか と思う。

ストーリーの表面的な進行としては、トオル君は院長とグルなのか悪役なのか?と思わせて、純粋な恋敵でした という肩透かしをさせるのでは と予想している。
院長とホリーさんの因縁、そこから吉良家と東方家の因縁に話が移って、最後 東方一家と定助の対決(=スタンドバトルに加えて、議論、哲学のぶつかりあい)で決着が付くのではないだろうか。

個人的には、家長 憲助さんにもう1枚2枚、裏があるような気がして、
(ロカカカの実が現れた以降)21巻までの描かれ方だと、どうも物わかりが良すぎるというか、主人公にとって都合のよすぎる人に思えてならない。
東方家の利益のために憲助さんは動いている筈で、ならば、最後の最後 定助とホリーさんに実を渡すのか、あるいはつるぎたち東方家のために実を使うのか そこのところの葛藤は、描かれるのではないか と予想している。

常敏も大家族の次期家長として産まれ、呪いの持病に苦しみ、イジメを受けて、そこから「毎日が夏休み」のライフスタイルに到った経緯がある。

定助も常敏も、どちらも全く、完全無欠のヒーローでは無い。

ジョジョリオンのラスボス(的な概念)はあえて言うならば「生と死」、現代日本社会をどう生き延びるかみたいな概念で、
物語の都合上 明負悟という強キャラは出てきているが、3部~5部みたいなスタンドバトルの盛り上がり、オラオララッシュの撃ちあいみたいな展開は無いだろうと思われる。
そもそものところ院長は89才で、ヨボヨボのじいさんがラッシュを撃って戦ったり、マッチョに空を飛んで戦うのは、絵的におかしいし、ちょっと無いんじゃないか と思う。

初期設定を背負って登場してきた主人公たちがどう生き延びるのか。
あるいは、常敏、花都、憲助の誰かは死んでしまいそうな気がするが、最後に死ぬとして、キャラクターがどういう生き様を見せて死ぬのか。

そこらあたりで、近作 8部のクライマックス、ザ・ワンダー・オブ・ユー(君の奇跡の愛)に到るまでの展開が描かれる気がする。
連載期間にしてあと1~2年くらいではないかと思うが、ロカカカの実 収穫まであと48時間、だいたいのところで物語は収斂に向かい始めている と思う。

お盆休みに聴く「砂の惑星」

お盆休みになると毎年 家族が実家に帰省して、(仕事の都合上)私1人だけで数日を過ごす。
ふだん 仕事や人間関係に忙殺されているときは一人になりたいと思い、家族からも離れて1人きりの充実感を味わうのだが、半日か1日くらい経つと物さみしくなってくる。
1人で過ごすことはともかく、仕事や社会的な役割がなく、何もすることが無いのに耐えられず、普段やらない家事や花壇への水やりをこまめにやりだす。
お盆が開けて仕事に復帰すると安心するので、人間はつくづく、社会的な生き物だと思う。

お盆や年末年始、仕事や社会から離れてすごす数日間は、たぶん、定年退職後 初老の人たちがどうやって毎日を過ごすか に似ていると思う。
ジョジョリオン 常敏が言う「毎日が夏休み」のアクティブさは無く、「シーザー 孤独の青春」のわびしい感じ、
人間 やることが無くなって一人きりになると、うっかり青年時代の足元おぼつかなさに退行してしまうのではないか というところがある。

飯島 敏宏監督の映画「ホームカミング」は、年老いたニュータウンと初老の人たちのかすかな情熱を描いており、
高田純次の演技はイマイチだったが婦警さんの役者がかわいらしく、観て得をした一本だった。


お盆休みのあいだ ひとりで食事をつくる必要があり、近場のイオンに買い物に行く。
イオンはふだん、A列車で行こうのイントロ、職員がクリーンタイムに入っていますのアナウンス、よく分からないアレンジの買い物マーチが延々流れている感じで、
買い物客としてワガママを言えば、毎日毎日 同じメロディが延々と流れ続けているのは、精神的な独房に閉じ込められたようで、あまり気持ち良くない。

朝早い時間など、ヘンな時間にイオンに行くと、ふだんと違うメロディが店内に流れていることがある。
以前にいちどシャツか何かを買いにいったとき XTC the mayor of simpleton が流れていて嬉しかった。
今朝 食品売り場に野菜やお惣菜を買いにいくと、Queen good old-fahioned lover boy が流れていて、エッ!?と思ったが、大好きな曲なので嬉しかった。

イオン社員の誰かが選曲をしているのか、有線放送を流しているのか 分からないが、選曲者の趣味が自分と合っていて嬉しい。


人間が社会的な生き物であるとは、「自分と似た人、自分と似た何か」を他人の中に見つけて喜ぶ ということでもある。
ジョジョの主人公たちは、承太郎やブチャラティ、ジャイロなど戦うときはひとり、孤独に戦うことを良しとしているが、同時に、主人公には仲間がいたり、誰か他人のために戦う社会性を持っている。

子どもからの影響で米津玄師を知り、海獣の子供のテーマソング、アルバム bootlegをよく聴いている。

絵本や童謡からイメージを取っている感じがあり、bootlegには、不思議の国のアリス、センダック「かいじゅうたちのいるところ」を連想させる2曲があり、
童謡と青春映画をミックスさせたかんじの歌詞、楽曲が並んでいるので、わりと正直な人なんだと思う。

米津玄師でいちばん気に入っている曲が「砂の惑星」で、最初 カチャカチャして騒がしい曲だなと思ったが、何回か聴いている内にお気に入りになった。
同名のSF小説から着想を得た一曲で、精一杯気取ってカッコつけた感じが良い。ジョジョでいえば、SBR ディエゴブランドーのような感じである。

インターネットのファンサイトを見たところ、砂の惑星は、ニコニコ動画の隆盛と衰退に捧げた作品ではないか という意見があった。
私はニコニコ動画をほとんど知らないが、米津玄師の活動の経緯を見るに頷ける説だと思う。

砂の惑星は、字義のとおり、砂漠ばかりの不毛な惑星に人が住んでいるという設定で、キリスト教っぽいフレーズを絡めて、中2病を昇華させた世界観が展開される。
若者はいつまでも若者であるわけではなく、いずれ青春時代(=モラトリアム)を卒業して大人になっていく。

米津玄師が「砂の惑星」的な世界観から卒業して、ふつうのバラードっぽい歌手になっていくのかと思うと、あまりつまらない。
山下達郎は、今ではバラードっぽいものばかり依頼を受けて作るようになったが、「僕の中の少年」は一代傑作で、クリスマスイブ~アトムの子あたりの作品は、何ともいえない煌めきが溢れている。

創作や制作には脂の乗った時期というものがあり、ことマンガやポップスにおいては、普通 25~35才くらいまでに一定のピーク、一度目のフィナーレを迎える感じがある。
一般社会で「転職は35才まで」というのに通じるものがあるかもしれない。

ーーあまりまとまらない記事になりましたが、米津玄師のこれからの活躍をそこそこ楽しみにしつつ、ジョジョリオンキン肉マンの連載を読む。
仕事の合間の私生活はあっさりしたもので、これに、プロ野球観戦と家族まわりのあれこれを挟んでいるというのが、毎日の日常である。

マンガ 「セブンブリッジ」の感想

セブンブリッジというマンガを読んだ。

板橋しゅうほうによるSFファンタジーで、白雪姫を中心に、いろんな童話・ファンタジーの要素を盛り込んだ想像力豊かな作品だった。

ジョジョとほとんど関係ない話題となり、すみません。付け足しのように加えると、本作冒頭に出てくるブックマンの描写は、ヘブンズドアーの能力描写に先駆けていると見えなくもない。
ヘブンズドアーの人が本になる描写は、先行するマンガ「外道の書」から来ているが、外道の書の作者は、セブンブリッジを読んでいたのかもしれない。

しかしそもそも、創作のエッセンスをどこに求めるかというのは視野の狭い了見で、白雪姫や不思議の国のアリスはどこから来たのか?童話やメルヘンに原著者が居て著作権が保障されるのか?
ウサギや小人のイメージ、物語を最初に作ったのは誰か?と、パクリ元、パクリ元、パクリ元…を無限に探し続けるのは、あまり前向きな考察にならない。
聖書や仏典、自然科学や考古学の新説を手繰って、なにかしら大きそうなイメージにたどり着くのがお定まりのパターンなのだろうか。

ーーセブンブリッジで展開されるアイデアやファンタジーもそんなところがあって、
現実世界の日本を飛び出したあと、作者の想像が及ぶ限り、さまざまな異世界を巡って、宗教、政治経済、人間の物語のエッセンスを詰め込んだ旅をする。

セブンブリッジ(7人の小人)の少しヒネッたキャラクター造形、敵役との戦いの感じは、東映特撮のスーパー戦隊を思わせるところがある。
それも道理で、板橋先生は若いとき、スパイダーマンなど東映特撮シリーズのキャラクターデザインを手掛けていたということだし、
芸大時代の創作仲間は、平成ウルトラマンシリーズの特撮に技術者として関わったとのこと。
類は友を呼ぶというか、自分も実写特撮が好きなので、ヒーローが巨大な敵と戦う感じや、1人1殺の武器を持って戦う感じはスタンドバトルやウルトラ怪獣よろしく、ググッと盛り上がるものがある。


個人的に感傷を呼ぶのが、作者が滋賀県出身で、冒頭 現実の日本の舞台として大津市の市街地が描かれており、
琵琶湖を囲む街並みの風景、児童劇団が演劇を行う県民ホールの様子など、なんとなくひなびた感じにリアリティーがあり、作者の描写力に度肝を抜かれた。

7人の小人がセブン・ブリッジ!と叫んで、異世界へ橋をかけるのは、2回。
物語のスタート 嵐の琵琶湖から旅立つときと、カプセルで眠っていた夏子に、あらたな旅を呼びかけ旅立っていくエンディングの、2場面である。

マンガや絵画の観かたとして、人間の目(日本人の目)は右から左へ流れ、右が過去、左が未来を表す というような一説がある。
1枚ものの絵画では、画面の向かって左側が未来、右側が過去であり、前向きで明るい感じの絵は、画面の左から光が差していたり、人物が左を向いているような話である。
(著名な例として、フェルメールの人物画を思い浮かべてみてください)

マンガ、日本語で書かれたマンガでは、ページは右から左に向かって開く。

そして、セブンブリッジ 1巻の冒頭で、現実の日本に別れを告げる夏子は、左(=未来)を向いて「そして、さよなら」とつぶやき、
県民ホールの舞台と重なり、現実とも夢(舞台)ともつかぬ異世界へ旅立っていく。
そして最後、もう1人の夏子が旅立っていった後 物語の主役の夏子はセブンブリッジと別れ、彼らの別れの言葉に「うん」と、右(=過去)を向いて涙ぐむのであった。

物語のラストのページ 白雪姫とアリスを組み合わせた一枚のイラスト、「君と夏子の夢見る時代は終わらない」とのセリフが何ともいえない感じがある。
言葉遣いやセリフ回し、絵柄の感じ、素朴な夢を吸い込んで朗らかな感じに、1980年代のマンガの、何とも懐かしい感じがある。
作者の年令や描いたときの状況にもよるし、1980年代末は私が小中学生だった時期で、青青しい子供の頃だった。

物語の設定がやたら凝っていたり、とぎれとぎれに読みにくいところもあったのだけども、
コンピュータやインターネットの設定は現代に先んじてリアリティーが有り、下品な方向やおちゃらけに持っていかず、真面目な感じに物語をまとめるのは良かった。

セブンブリッジの物語上 大津の県民ホールから物語が始まる必然性は薄いのだけど、そこを起点に持ってくるところに、作者の故郷への思いを感じた。
そしてそこから旅を始めて、ローカル線巡りの地方旅(近江八景なり、日本の名所なり、世界の名所を巡るみたいな展開だと興ざめしてしまう)にはもっていかず、
作者の想像と経験を詰め込んだ異世界への旅、夢と現実、過去と未来をつなぐ「人間の夢」を、全7巻・50話に描き出せた意欲作だと思う。


セブンブリッジというマンガは、大津を舞台の起点に置きつつ、夢と現実、過去と未来をつなぎ得た作品という意味で、
映画「幻の湖」の成功版、物語を破たんさせず最後まで渡り切った、描き切った物語だと思う。

近年 橋本忍先生は亡くなられたということだが、橋本先生はセブンブリッジを読んでいたのだろうか。
ときどき 琵琶湖大橋を通り過ぎるときに、幻の湖 血まみれのラストシーンを思い起こすのだが、そんなことを考える人が果たして、今の日本で何人居るのか。
一人でも思い起こす人がいるかぎりは、その物語は死なず、生き続けるのだろう と思う。

「何が起こっているのか分からない」 ジョジョに特徴的な場面描写

ウルトラジャンプ 2019年7月発売の最新号を読んだ。
常敏・つるぎとオージロー、マコリンの戦いが描かれた話で、スピーディーに決着して面白かった。

常敏のスタンドがどのような罠をしかけたのか、オージローはどうしてプールに飛び込み、マコリンは誰の携帯電話を取ったのか?
一読したときはよく分からず、何が起こっているのか分からなかった。

時間を置いて読み直して、常敏が自室でサイフ、携帯電話に罠を仕掛けていたこと。
オージローとその仲間を追跡するためにオージローを逃がし、即死させず、アジトと仲間にたどり着いたところで2人を倒したことが理解できた。

次号以降 オージローが撮影した動画が保護者連に拡散され、さらなる厄災が襲ってくるのか? ちょっと予想が付かない。
東方フルーツパーラー、吉良家の家族たち、岩人間の野望を含むところで、次号以降の展開が進むのだろう。


ジャンプと同日に発売されたコミックス21巻を読むと、毎月の連載を読むよりも通じが良く、
コミックス1巻単位くらいで、話がすこしずつ進み、キャラクターの動静が描かれ、積み重なりつつあることがよく分かる。

モカンと吉良ジョセフミの過去編からジャンプを毎月 読みはじめたが、
ジョジョリオンの話は、コミックス数冊を通して読んだほうが、エピソードの通りが良く、話の力点がよく分かって読みやすいかもしれない。
雑誌の紙質は汚く、コミックスのほうがきれいな紙で見やすいので、そちらのほうが読みやすい ということもある。


何が起こっているか分からない場面描写というのは、ジョジョに特徴的で、
トリックや駆け引きを散りばめる戦闘描写、
キャラクターやストーリーをあまり説明しすぎず、テーマや作者のお説教を表に出し過ぎず、
スリルとサスペンス、ホラーやグロテスクを前面に出しつつ、物語を紡ぐ荒木先生の創作技法によるものだと思う。


21巻で描かれた、常敏親子と小学校同窓生・教師たちとのやりとりはかなり面白く、
教職員として勤務経験のある自分には、ウンウンと頷きながら面白く読めた。

荒木先生が言うところ「キレイでないほうの現実」、醜さや酷さというものが世の中には確かにある。

そして、それらを説教臭くないかたちで表現する、
ただのグロやホラー、エロ描写で終わらせるのでなく、それらに対置、対抗する価値観を出して戦わせつつも、全体としてはエンターテインメントであるというのが、
ジョジョの、荒木飛呂彦作品のオシャレなところだと思う。

誤解を招く表現かもしれないが、ひらたく言って、「バカでも分かるように」説明はしない。
噛んで含めるように何でもかんでも説明しないので、初めて読んだときには分かりにくい。
それが流儀なのだろう。


ジョジョをめぐる感想を読んでいると、スタンド能力のあれこれの予想や分析、バトルの展開の良しあしを楽しみ批評する声が多い。
バトルや超能力の面白さが展開の機軸を成しているのは確かなのだけど、
私個人としては、ストーリー、キャラクターの流れ、展開のうねり、絵、コマ割りで表現される場面展開の表現力、そういったものを楽しみに読んでいる。

院長先生のスタンド能力は、たぶん、因果律、運命を操作する能力で、これまで杜王町に起こった不可思議な事象、つじつまの合わない展開とかも、
すべて、院長先生の能力で、主人公達はワナにかかっていたのだ…… みたいな展開が、ありそうな気もする。
ふた昔前の特撮、マンガでよく有ったかんじのアイデアで、終盤にちゃぶ台がえしをするだけでは面白くないので、もう二ひねりくらい有る気がする。

定助のシャボン玉が超ひも理論にあること、
常敏が熱をコントロールすること(エシディシ、バオーのウォーケンを連想させ、何か自然物理の根本からエッセンスを取った能力が出てきそう)、
医院長 明負悟の、運命や因果律を操作する能力。

トオル君・康穂との三角関係、常敏・つるぎを中心とした東方家の問題、ノリスケと花都の関係。
ホリーさんと岩人間の因縁から、ロカカカの実は果たして誰のためのものなのか というところで、
スタンドバトル、キャラクターたちの因縁を含めて、これからまとめていくネタは沢山ありそうだ。

東方家、吉良家、岩人間、さらには杜王町の住民たちが加わることで、
わりと生々しい感じの、理想的では無いイヤなところもある現実の人間たちが相まみえる展開は、なかなか面白い。

写真を合成して描く背景描写が、絵の全体的な質感、パースが微妙に揃っていなかったりするところもあるのだけど、
「リアルな現代日本の風景」を描きたい という、荒木先生の創作意欲から来るものなのだろう。

ここから先、未知の強敵みたいなものはもう出てこなくて、ストーリー、キャラクターの行く末をまとめにかかっているところだと思う。

台所のシンクで言うと、洗い物の水がゴゴゴゴゴッと音を立てて、渦巻きになって流れ出しているところで、
排水完了した後、シンクの排水口にいったい何が残っているのか?
美しい何ものかが顕れているのか、ゴミのような無残な現実が残っているのか 次号をお楽しみに、といった按配であった。

プロ野球、キン肉マン、ジョジョ 豪傑たちの生き様を追う

ジョジョと殆ど関係ない記事となり、すみません。
ジョジョリオンの連載を毎月読んでいますが、月刊誌ゆえか展開が遅く、こまめに感想を語りづらい雰囲気があります。
オージロー再登場の意外さ、つるぎと同級生 子どもと保護者たち、黒柳徹子のような学校長の陰険なやりとり、どちらにも非があり救われない感じは面白い。
スタンドバトルに入ると長くなってダレて、もっとテンポよく、キャラクター同士のかけあいを進めてほしい… というのが、最近の読後感です)


昨日 プロ野球オールスターゲームの第2戦にて、阪神の近本選手がサイクルヒットを達成。
打った近本は見事だが、パリーグの野手が怠慢な守備をしてわざと三塁打にしたことが、インターネットで賛否を呼んでいる。

個人的には、このようなやらせ、ファン感謝デーでやるようなおふざけはキライで、
お祭りごとの意味、ファンが何を喜ぶかの意味をはき違えているのではないか と思う。

落合が中日の監督をしていたとき「勝つことが最大のファンサービス」と言い、
2007年の日本シリーズで、山井が完全試合を達成する目前で岩瀬に交代させ、1-0で勝利、日本シリーズを勝ち抜いた事例があった。

前田智徳がアキレス腱を切って試合復帰した1996年頃、「もっといいプレーがしたい」とテレビ局のインタビューに呟いて答えていたが、
彼らが体現していたような真剣味は薄れてしまったのだろうか。

オールスターゲームは公式戦でも日本シリーズでもない、いわゆる花相撲の色合いがあり、年俸査定に含まれるのかどうか知らないが、
いつの間にかプロ野球は、私がよく観ていた1990年代からさらに変わって、何となく得体の知れない、さみしいものになってしまった気がしてならない。
とても残念だった。

さらに寂しさを募らせるのが、(この事件が起きたのが土曜日の夜、翌日は日曜日とあって)
ここは張さんの出番だ! サンデーモーニング 8:50にチャンネルをあわせれば、きっと張本が、今日現在のたるんだプロ野球選手に喝を入れてくれるに違いない!
と望みを抱いてサンデーモーニングを視たところ、
張本と田尾は、近本のバッティングフォーム 右の足が上がり過ぎ、左の手が入り過ぎていたが、昨日は良くなっていたので後半戦からはもっと活躍するはずだ と、
(私からすれば)どうでもいい技術論を述べるばかりで、かつての張本の牙は抜かれ、魂は削げ落ち、ただの好々爺になってしまっていたことがショックだった。


今年の4月1日から元号が変わり、平成は終わって、令和元年がスタートしている。
自分にはあまり関係が無いとうそぶいていたが、思わぬところで、日本社会の老い、移り変わりを実感した。
昭和は遠くなりにけり というフレーズがあるが、プロ野球の変節に、それを痛感した。

ついでのように言うが、先日 東京FMのニュースワイドを聴いていて、
「1980年代 少年ジャンプを代表するマンガは?」というアンケートがあり、回答の選択肢がドラゴンボールシティハンタージョジョ、その他マンガ 4つ。
1位 ドラゴンボール、2位 シティハンター、3位 その他、4位 ジョジョだった。(2位と3位は逆だったかもしれず、すみません。1位 ドラゴンボールが40%くらいの得票を集め、総回答数は2~3000だったと思います)

このアンケートを聞いて違和感を感じたのは、
1980年代のジャンプマンガといえば、鳥山明の2作品、キン肉マン北斗の拳キャプテン翼、聖闘士聖矢といったあたりで、80年代 ジョジョは決して人気作では無かった。
司会の鈴村健一は、ジョジョは連載が始まった当初 変なマンガという認識で、人気作ではなかった と述べていたが、そのとおりだった。
相方のハードキャッスルエリザベスは、ジョジョを知っているがキン肉マンは知らないという雰囲気で、何ともいえない世代ギャップを感じた。

おおげさにいえば、歴史認識というものは、こうやって、少しずつ入れ替わり、事実と食い違っていくのかもしれない。

日本プロ野球で、沢村栄治の速球は時速160kmを超えていたのか?みたいな議論があるが、客観的証拠が残っておらず、事実を正確にたどることが難しくなっている。
ジョジョを含めたジャンプマンガを巡る事情も同じで、客観的データが残っていても、歴史が書き換えられ、宣伝され、そのときどきの都合に良いようにゆがめられてしまうことがままあるかもしれない。


TFMのニュースワイドでは、鈴村健一と、(ねとらぼ?だったか、うろ覚えですみません)ニュースサイトの運営者が語り合っていて、
運営者さんの個人的一押しは、「銀河 流れ星銀」。犬が熊と戦う話で、作品説明を聞かされたハードキャッスルエリザベスは勝手が分からずポカンとしていた。

自分がはじめて少年ジャンプを読んだのは、1983~84年頃。
母親は最初 月刊少年ジャンプをまちがって買ってきて、兄がひどく怒った後、次に母親が買ってきた週刊少年ジャンプの表紙が、「銀河 流れ星銀」だった。

話がまとまらなくなってきたが、銀河 流れ星銀、魁! 男塾、北斗の拳のような破天荒なマンガ、豪快さ、豪傑の生き様を描いたマンガが減ってきたように感じて、少し寂しい。

1980年代前半 自宅近所にあった商店で、ドカベンの載ったチャンピオンを読んで、えらく汚い絵だなと思った記憶がある。
ドカベンあぶさんで描かれた昭和の「旧き良き時代」が移り変わり変質していくのは、ある意味で当然で、平成元年に建った建物が築後30年を超え、老朽化が進んでいる。

プロ野球の真剣勝負としての面白味が薄れていくのは寂しいことで、
かつて水島新司先生がチャンピオン巻末などで述べていた「日本のプロ野球が大リーグに勝ち、日本プロ野球こそを野球の本場として発展させたい」が、ものごとの本筋であるとは、今でも思う。

日本プロ野球が大リーグの下請け、4Aリーグみたいになってしまっているのは寂しいことで、
私は国粋主義者では無いが、日本プロ野球は日本プロ野球として、大リーグに負けない、日本独自の魅力を保った、地域社会に根付くものとして今後も発展を続けてほしい。

オールスター戦の花相撲は、その精神性において大問題であると言わざるを得ないが、かつて喝を入れてくれた張本はもう居ない。大沢親分ももう居ない。
そもそも、サンデーモーニングで喝とあっぱれを入れつつ適当なコメントをするだけの2人の爺さんに、何を期待して見ていたのか という向きもある。


豪傑の生き様を描くという意味で、1980年代ジャンプマンガの2つ、キン肉マンジョジョには、今でも大いに期待している。

実のところ キン肉マンの始祖編をまだ読んでおらず、シルバーマンがサイコマンと戦いはじめたあたりからしか読んでいないので、
何かの機会にヒマを見つけて、キン肉マン 王位争奪編後の展開を読み込んでみたいものだ と思っている。

ジョジョは、キン肉マンや男塾と重ならない点、荒木飛呂彦ならではの個性・表現も散りばめられているが、
読者の胸を熱くさせる少年マンガ、豪傑、男の生き様を描くという点で、彼らの描く作品には共通した個性がある。

スティールボールランは男2人の長旅もので、男の生き様を描く熱い話だった。

ジョジョリオンは、スティールボールランの裏、違う要素を取り入れて描いている節があって、主人公 定助のアイデンティティー探しに重きを置いている点が、(すでにオッサンとなった)自分にはまだるっこしく、じれったい部分もある。
フルーツ店の長男として、大家族の次期家長として苦悩する常敏、常敏から見た両親と妻、子どもたちのドラマが、クライマックスに向けての楽しみで、
常敏の行動に対する「裁き」、作者がどのような因果応報を提示するのか が読みどころと思って、期待をしている。

キン肉マンでは、キン肉マンソルジャー(アタル)が登場したのは良いのだが、
サタンと戦う、神を超えるか超えないかみたいな話がかったるく、そのあたりのテーマを超人プロレスに載せるのはムリがあるんじゃないか と勝手な心配をしている。

そもそもが、シルバーマン、ゴールドマン、ザ・マンの戦いを描き切ったところで、「神」のテーマはすでに描き切っており、
次のシリーズでさらにスゴイ、ザ・マンを超える強い男、同一路線でさらにスゴイ敵を出すのは難しいんじゃないか と思っている。

とは言うものの、ジョジョと違って、キン肉マンは同一の主人公(スグル)が主役を張りつづけて数十年 戦い続けているわけで、
物語を破たんせずに、読者に面白いと思わせ続けている時点で、ゆでたまご先生は只者ではない。

荒木飛呂彦が同い年のゆでたまごをライバル視し、近年 ジョジョ展大阪展を海遊館ヨコで開催するまで、大阪に足を踏み入れたがらなかったのも頷けるというものである。


ーー好き勝手なことを書いているが、この先、ジョジョキン肉マンの連載がどのように展開していくのか 楽しみに読んでいきたいと思う。

「海獣の子供」感想

ジョジョとほとんど関係ない話題で恐縮ですが、映画「海獣の子供」を観に行った。

 

宇宙が人の形(頭があって、胴体や手足がある)になって、宇宙=人=地球を表現するのは陳腐でどうかと思ったが、全体的に映像が凝っていて、どこまで凄いモノを見せるのか?みたいな意味で、満足感のある映画だった。

映画のラスト 海から光が立ちあがって、キラキラと空に立ち上っていくところ。

主人公達が空から地上に落ちてくるところで見えた、海の緑っぽい色合いとキラキラした小波がとても美しかった。


小学校高学年の子供と観たのだが、
クジラの体内でのシーンは精子卵子が結合して、受精卵から命が産まれたのを意味してるのだろうか? と話してきたのに、すこし驚いた。

空君が光になって海に消えていったのは、E=mc2を意味していると思うが、映画を観た直後 子どもに、あのシーンは相対性理論から来ていて、光が現れたり消えたり入れ替わったりして、理科や科学を習っていけば分かるが……と説明したが、よく分からない説明だった。

隕石のかけらを女の子が託されるくだりは、ジブリ映画 ハウルの動く城の、星を飲みこんで手放して…というくだりを思い出すところがあった。

 

この映画がいわゆるスピリチュアル、宗教がかってモヤモヤした感じがよく分からない という感想を散見するが、私自身は、この映画に宗教性は感じなかった。

自然賛美、生命の神秘を讃えつつ、海洋や宇宙の謎を折り込み、大きな絵を描きたかった映画なのだと思う。

 

この映画を観ていちばん驚いたのは、映画原作者(マンガの作者)が男性だったことである。

映画を観ながら、主人公のデザイン、女の子と男子2人の三角関係っぽいストーリーテリング、女性賛歌っぽい世界観から、この話を考えたのは女性、20~30代の若い女の人が自然や宇宙好きで、少女漫画っぽい、SFを絡めた話を頑張って描いたのだろう とテッキリ思い込んでいた。

同作品の作者は五十嵐大介氏、執筆当時 40歳前後のオッサンだったということを知って、とても驚いた。

 

荒木飛呂彦いわく、創作の秘訣は「この世界は美しい と念じること。まだまだ謎がある、何でも描けるって思うこと」で「自分で自分に限界をかけることがいちばん良くない」らしい。

(各種インタビューから、私が今思いついたかぎりの要約です)

 

海獣の子供は、映画・映像の面白さもさることながら、原作者の意外性、これを観た観客たちの分かったような分からない反応も含めて、世界の広さ、人間の謎をうかがわせる興味深い作品だった。

 

 

正統と異端 (オカルトとは何か)

2014年の春 このブログで、「ジョジョはなぜ気持ち悪いのか?」という記事を書いたことがあった。

ジョジョは、なぜ気持ち悪いのか? - ジョジョ読者のブログ

 

当時 ムーなどの編集によるミニムック、拷問と処刑、天使と悪魔、心霊現象やカルトを取上げたものを数冊買って、ヒマつぶしに読んでいた。

「人間はどこまで異常になれるのか、人間はなぜ、ときとして異常を求めるのか?」という根源的な問いもあったかもしれないが、ムーのムックに求めたのはやはり、刺激的な娯楽・慰安だったと思う。

 

これらのあやしいミニムック(学研が版元になっているところが面白い。私は学研の「科学と学習」、マンガ偉人伝で育った世代である)を読んで、ああこれはジョジョっぽいな…と思って、上記の記事を書いたのだった。

 

そして最近、キリスト教福音書を読んでいたところ、

ヨハネ福音書をはじめとする普遍的な、正統な福音書と、トマス福音書ほかの正統誌からは抹消された福音書があることを知った。

「異端」福音書を取上げた本は玉石混交で、著者の立場や主張が色濃く編集されたものも多く辟易したが、これはまさに、正統福音書の編纂過程で起きたことのミニチュアだと思った。

この1~2か月で読んだキリスト教関係の本の中では、「禁じられた福音書ナグ・ハマディ文書の解明 エレーヌ ペイゲルス (著)」という本が抜群に面白く、内容が明解でよく整理されており、女性の著者の温かい人柄がにじみ出ていてとても良かった。

英語の原題はBeyond Beliefで、皮肉めいたダブルミーニングになっているらしい。(極東ブログというブログに、この本の書評があり、ダブルミーニングの由来をはじめ、含蓄深い記事を書かれています)

 

そして、正統と異端、カトリックとオカルトの対立というモチーフは、

まさに荒木先生が描いてきたジョジョ、アラキマンガの通奏低音(≒通底するテーマ)であったと思う。

少年時代に悪魔的なロックにハマっていたこと、荒木先生のおばあさんが東京に住む孫を心配されていたとか、作者個人のエピソードから取り上げることもできますが、

何より作品の中に現れている。

魔少年ビーティーの逆説的ヒーロー性、バオー来訪者の異端の悲しみ、

そして、ジョジョ1部以降に紡がれたジョースターとディオを中心とする物語の数々。

 

近年の著書(マンガ術と映画エッセイ)にて荒木先生は、

イーストウッドをはじめとする名優・名監督、ホラー映画やサスペンス映画の名作を賛美すると共に、究極のヒーロー像として、イエスキリストを挙げていた。

(私の解釈では)「隠れて善を行う、孤独に生きて正しいことを貫く人」というイエス像※を述べていて、

ジョナサンを典型に、言うまでもないことだが、荒木先生の哲学や実体験、人生を重ねて得られた認識といったものが、ヒーローや悪役の造形に反映されているのだろう。

 

※ちなみに、荒木飛呂彦の漫画術 第三章キャラクターの作り方 より、原文は下記の通りです。

 

主人公は「善なるもの」であり、さらに「ヒーロー」である必要があります。ここでヒーローの条件が何かと言えば、実は、孤独である、ということです。

究極の選択を迫られたとき、それは主人公だけが解決できる、というものでなければいけませんし、自分の力でその難問を解決しなければならない主人公の立場は、どうしても孤独にならざるを得ません。

 

 (中略。5部 ブチャラティチームの主人公たちが、チームであってもはみだし者同士の集まりで、戦うときはそれぞれが孤独である旨を述べる)

 

社会のルールから認められていなくてもかまわない、たとえ孤独であっても大切なものを追い求める、これが最も美しい姿ではないでしょうか。

究極のスーパーヒーローは、イエス・キリストのような人物です。誰かに崇められはするが、お金をもらったりするわけでもなく、ひっそりと死んでいくかもしれない、それでも自分の中の正しい真実を追う人、それが、ヒーローなのです。

 

(以上、引用終了。この後、クリントイーストウッドの描いたヒーロー像を述べた後、承太郎をはじめとする主人公たちのキャラクター造形に話題が移っていく)

 

 

ーーまとまりのない記事になりましたが、私としては、ムーの編集によるミニムックは案外あなどれず、天使と悪魔という一冊は、ドギつい見出しやエグい臭みも多かったが、宗教史や神学の内容をよくまとめてあり、常識をくつがえす驚きがあった。

ムー本誌を買ったことは今まで無く、これからも無い気がするが、一連のミニムックはよい買い物だったと思う。出会いに感謝したい。

 

 

追記:

この記事を書いた後、ふと 情報を検索したところ、ムー編集者(TVの心霊番組なんかに出ている、三上編集長)のインタビューがあった。

小学館 学年誌編集者(切通理作氏の著書にある、上野氏へのインタビュー)と同じく、子どもの頃に読んでいた本の舞台裏、謎を探る試みは刺激的で面白い。

 

三上編集長のインタビュー 一部を抜粋・引用しますが、ほとんどそのまま、ジョジョの製作スタンスだ… という感じです。

荒木先生は、2003年 週刊少年「」というTV番組の取材で、「座右の銘 あらゆることを疑う」と述べていたことがあった。

古代ギリシア犬儒派キュニコス派)よろしくシニカルで醒めた物言い、神秘的なものに魅かれつつそれを疑い、自らの立ち位置と血肉、「人間らしさ」(人間賛歌)を失わない姿勢が、荒木先生の創作スタンスなのだと思う。

 

月刊「ムー」40周年記念展を開催! 編集長が語るオカルトとの距離感 |好書好日


――世界のオカルト事象を次々と紹介しては、オカルトブームを牽引していきました。いっとき、類似誌が多数、発刊されましたが、今も続いているのは「ムー」だけですね。「生き残れている」理由とは。編集方針に特色があるのでしょうか。

 方針で言えば「ノンフィクション・ミステリー」なんですね。ミステリーというと、推理小説の意味合いが大きい。なので、敢えて「ノンフィクション・ミステリー」。「世界の謎と不思議に挑戦する」というテーマを掲げているんです。超能力とか心霊、魔術など、要は教科書で扱わないような、「本当かな?」みたいなテーマの括りで企画を集めると、ともすれば、「トリックだ」とか、初めから「こんなのあるわけないじゃん」って思われてしまう。

 そこで作り手が、こういうジャンルに対して小馬鹿にするような態度、スタンスだと、思いっきり誌面に出てしまう。かといって、思いきりハマっちゃうと、読者がドン引く。「これ、ヤバイ雑誌だよ」ってなる。競合誌が今までいくつかあったんですが、どれも続かなかったのは、おそらくそういう理由だったと思うんです。

――小馬鹿にするのではなく、のめり込み過ぎず、真摯に向き合う姿勢こそ大事ということですか。

 「やらせ」みたいなことは一切していない。ただ、どんな突飛な説でも、仮説として提示するのは良い。ただし、それに至るまでのロジックは、読者を納得させるようなものにする。いちおう理屈があって、その記事の中で、筆者の中では矛盾のないように理屈が通っている。